ふだん平日の日中は建物の中でずっと仕事してるので、たまに所用で外出したとき、日中のそんな時間に外を歩いている人たちを見て、これだけたくさんの、自分とはまったく異質な、別の仕事、別の用事、別の役割、別の目的、別の論理で生きている人たちが、外の世界にはいるのだと思って、そのことに気が遠くなる思いがする。

そんなの、自分の勤め先の外にも人がいるというだけじゃないかと言われそうだが、たしかにそれはそうなのだが、なんというかもっと、全然違う何かだと言いたい、すれ違う人々が、ほとんど外国人のように自分とは隔たっていて、きっと言葉も意志もまるで通じない、なぜかそう実感される。それは悲観とかネガティブな感覚とかではなく、端的な事実のように感じられる。

逆に言えばそれは、社内というか同じ建物内に働く人々を、それだけ身内のように、同じ論理を共有してる枠内のように感じていることでもあるのか。この建物のなかに何百人いると思っているのかという話だが、観念上はそんな風に思っているのか。

結局内外どちらも思い込みに過ぎなくて、この認識はおそらく内外どちらも正しくない。しかし正しくなくても機能しているのだから、それはそれでいい、運用の問題なので、ひとまずそのままでいいとの判断は可能だ。

お金の問題と、課された役割の問題。困難なタスクを軌道に乗せようとすること。失業保険の受理に必要な書類を調べ問合せ取り揃えること。それは等しく何事かへの努力だ。

まだ遠くの海に小さく見えていた点が次第に大きくなり、船が見えて、甲板には人の姿、来客だ。会議室はすでに予約してある。