武者

昨日引用した藤枝静男の文中に出てくる志賀直哉は、当時すでに七十歳を越えている。その年齢でも作品制作時にはあれだけメンタルが荒波立つというのが、ほとんど驚異的なことのように思う。

作家が作品をつくる、何の頼りもなく助けもない状況で、蛮勇をふりかざしてそれを押し出していく、それは誰であっても、年齢や経験を問わず、作家は自分の作品を為そうと思うなら、そういった極度の緊張と不安に翻弄されることは避けられない。先日引用した志賀直哉老人が、その壮絶な闘いから戻った直後の姿ということだ。

十五年ほど前にテレビで見た、棋士羽生善治が対局する場面、あれは壮絶だった。羽生善治といえば天才で将棋の神様で冷静で理知的で貴族的に優雅みたいな、そんな粗雑な手前勝手のイメージが一挙に吹き飛んだ。そこに見たのは、上記となんら変わらない、ことに終盤の勝負を決める寸前の局面にきて、羽生は前のめりになって盤面を見つめている、その表情が、目はうつろで、呼吸はまるで心疾患の如く浅く早く、おそらく心拍数も異常に高まっていて、ほとんど熱にうなされて朦朧とする病人そのものだった。駒を動かそうと伸ばしたその手が、小刻みに震える。観客とテレビカメラの衆目を集める中、その指でもち上げられた駒が、なさけないくらいグラグラと震えているのだ。ほとんど子供の姿に見えた。自分の狼狽や焦りを上手く隠し適当にとりつくろう術に長けた大人のやり方をまだ習得できてない、いや仮にわかっていても、そんな術など役に立たないほど極度の緊張下に心身を晒している人間の姿だ。あれほどの極限状況に毎回自分を置くのが棋士なのかと思った。かわいそうな子供の姿であると同時に、はるか以前から闘いを職業として生きている人の姿でもあった。未知の領域に身を晒すことを毎回要求される、むしろそれに惹かれとりつかれている、それは一体どのような神経なのか、もしかすると過去、歴史上の戦国時代の武士や、戦時下の兵隊も、実績を重ねた経験者であればあるほど、毎度そのように表情をこわばらせ全身をガタガタと震えながら闘っていたのではないのか。

ちなみに芥川龍之介戯作三昧」の終盤、馬琴が八犬伝を執筆するときの描写も、上記のような人間の姿をとらえたものではないかと思っている。読んだのはかなり昔だが、あれは好きで、いまだに思い出す。