Arrested Developmentが、初めてのヒップホップ体験です。という人は、きっと少なくないはずである。知らんけど。
・・・っていうか、そんな人にとって、Arrested Developmentと口にしてしまった瞬間、封印されていた青春が蘇ったりしてしまい、突如悲しみに溢れるのかもしれませんが、ちなみに私はそんな事は無いですが、同年代の皆さん如何ですか?
ちなみに数年前出た新作とか僕は未聴。ソロもほぼ未聴です。でも初期2作は、今聴いてもそれなりに楽しい。という事をこの前久々に聴き返して感じたのだが、まあ、今この瞬間、僕にとってArrested Developmentの事はどうでもいい。
問題は「ループ」に関してである。
あるシークエンスを、延々繰り返すと、ずっとビートが継続するからずっと踊れて盛り上がれるじゃん!いいね!!っていうのが、シカゴハウスであり、ヒップホップであり、その後のターンテーブル・ミュージックの流れ(ターンテーブル・ミュージックって何?そんな言葉あり?)だった。と。
- 作者: 椹木野衣
- 出版社/メーカー: 洋泉社
- 発売日: 1991/06
- メディア: 単行本
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90年代初頭、椹木野衣の「シミュレーショニズム」を読んだ、ダサダサの美術学生たる僕が知ったのは、まさに上記の事項それ一点であった。(あと、レッチリを聴くのも、リヴィングカラーを聴くのも、恥ずかしくない。むしろCOOL!という事を裏付けてくれて嬉しかった。・・・つーか今となってはそんなの相当ものすごくどうでもいい話であるなー。)
たぶん、椹木野衣はArrested Developmentを鼻で笑うであろう。はいはいあったねーとか言うだろう。まあ当然だしそれもそれで良い。
しかしArrested Developmentの「Mama's Always On Stage」では、・・・えーと、何がループしてるんだか知らんが、とにかくある繰り返しが、一定周期で繰り返されてる。特筆すべきは、その繰り返しの狭間部分で、明らかに、そこで時空がぶつっと途切れ、もとの箇所に戻ってる事が認識できる事だ。端的に言って、すごいおおざっぱな繋ぎである。「細部の調整」はしてない。ある意味、壊れて勝手に鳴ってるっぽい。確かにビートは永遠に供給されそう。間違いない。
それが壊れたテープの再生でしかない。というか、ビートの連続を通じて生まれてくる「熱き血潮」みたいな何かとは絶対無縁で、たとえばの話、こんな冷たいバックトラックに乗せて「メッセージ」とか「スピリッツ」が歌われる事は、決してあってはならず、クールとか、テクノとかいう話ともまるで違う、ある意味、死体愛好に近いグロテスク趣味を、ヒップホップは根底に持っている事がはっきりとわかるのだ。つまり椹木野衣的なのだ。Arrested Developmentはヒップホップが持ってた、凍て付くような冷たさを、世界最初に、ファミレスレベルの消費物にしたグループ。なのかもしれないが、今聴き返すと、不思議と未だ、ビートの「凍て付き」は生々しい。
まあ、もともとLPレコードっていうのは、針が飛んで同じところを延々再生し続ける時の薄気味悪さと言ったら、元々人を震撼させる程の、かなりの凄みがあったのだ。どんなハートウォーミングな曲でも瞬時にハードミニマルテクノに変えてしまう極端さ。とでも言おうか。アナログテクノロジーがもつ根源的パワーと言えよう…。
ところで椹木野衣は、嗜好として、こういうグロさの表象を愛していた事は間違いない。少なくとも、テクノデリックまでの仕事に関しては、そういう嗜好で著述に勤しんでいたと言える。この椹木野衣という人は基本的にロマンチストであり、非ヒューマニズム的な、テクノ的な、ロマンチックな「表象」に敏感に反応するタイプなのだと思う。
しかし、音楽が90年初頭に獲得したはずの「グロさ」は、90年代半ば、なぜか切なさ/刹那さ→妙な馴染みやすさへと回収されていく。椹木氏の仕事も、来るべき21世紀を前に、方向を変えることになるだろう…。
なんて事を数ヶ月前に入手したJ Dilla - Donutsを聴いていて、考えた。
今年のはじめにリリースされたこのアルバムのグロい美しさは、かなり素晴らしい。(このアルバムの事はDetroit 2 Detroit - デトロイトテクノ ブログ -で知りました。いつも参考にさせていただいています。自分など、この手のサウンドに言及する資格は無いような青二才ですが、そんな事言ったら、全てに対して語る資格がない事になるので、厚顔無恥で行かせていただいてます。すいません)世界全部が死んだまま、無理やり再生され、ループさせられてる感じ。ジェイ・ディーという人が急逝してしまって、これがラストアルバム、などという事は全く何の関係も無い。ただただグロくて、美しく、グルーヴィである。