ウィレム・デ・クーニング


竹橋の近代美術館で今開催中の企画展では、ウィレム・デ・クーニングは2点あって、どちらもかろうじて、人体と判別できるようなイメージが描かれているのだが、それは、絵の具が縦横に激しく運動の軌跡を描くような筆致で画面に載っているだけのようでもあり、飛沫が飛び散り、油分は紙に滲みを残してはみ出しており、そのよう有様を観ているとなぜか、要するにすごく「絵が上手い」という事を感じる。


上手い。というのは、たぶん、描いた人に対する賞賛である。オーロラとか、その手のすごい見事な模様が、自然現象で偶然できても、それを「上手いな!」とは言わない。その現象が、ほぼ完璧に作り手の思惑というか、操作の制御下に置かれている事が感じられたとき、「上手いね」と思うのである。絵の具が為す現象と、作り手の思惑が、かなり遠くに離れていて、全く無縁なようでいて、それでも、実は微かに作り手の意志めいたものが感じられた瞬間に、人は「おおー上手い!」と感嘆するのかもしれない。


音楽なんかでも、演奏者の「上手さ」が感じられるものは多い。…というか、それがまったく感じられない音楽というのは、ある種怖い。野蛮と言うのか?冷酷というのか??なんか未だ人間界に降りてない感じの、モノの生々しい凶暴性が消えてない感じの、人の感じがしない、単なる「音」というのは怖いものである。


人による操作の制御下あって、見事に操られた絵画は上手いと同時に、飼いならされたような退屈さからも逃れられないのだろうが、しかし、更に同時に、人間の温かみがあって人に優しい。いわば自動的にユーザビリティを獲得していると言える。作り手の気配を絶妙な距離感で感じさせることが「上手さ」だろうか…?


ウィレム・デ・クーニングはその辺、程好い感じで、上手いなーと感じさせながらも、画面上に生起してる現象の生々しさの凍て付くような冴えは、失われていない。しかしこの程好さが「良さ」か?については個人差あるであろう。もっと凄絶に冷酷なのが好みな人もいれば、もっと優しいのが良い人もいるだろう。