イメージを膨らませるものではなく、むしろ限定する…


10日ほど前、父から電話があって「田舎の知り合いの関係で展示をやるのだが、そのときお前の作品も何点か展示したいのだが、お前半切くらいの小品が何点か出せるか?」という話だった。僕はあるよと答え、それ以降早速、小品の準備にとりかかっている。元々以前から制作の折々で、比較的小さなサイズのものは何点も作ってはいたが、ただ「仕上がっている」感じのモノがほとんど無い。という状況であったため、それらの中からイケそうな物をピックアップして加筆していった。


その、父からの話であった「展示」というのは、詳細はまだ確認していないのだが、おそらく三重県に住む父と、父の知り合いの方が、かなりプライベート的な空間を使って、限られた中で、内輪的に催すような、まあ「発表」と呼ぶほど大それた事ではない感じの場であろうと想像される。まあしかし、僕も前に少し精神的にも実質的にも美術制作にブランクがあった訳なので、それ以降「心をいれかえて」制作を再開してからは初の、久々に作品を壁に掛け人目に晒す機会なので、かなり新鮮な気分であるが、ただ小品準備を進めていく中で、いろいろ思うところが多かったので自分用覚書として書き留めておきたい。。


僕は、今回作品を送り出す展示空間と、そこで僕の作品を観てくれるであろう人というのが、その方々について過去にお会いした事もあり、僕の過去の絵も知っておられる方々なので、これを見せたらこんな事を言ってくれたり感じてくれたりするのではないか?などと、現段階である程度頭の中で思い浮かべる事ができるのだが、--勿論、そんな想像は間違っていて、どんなによく知っている方であっても、(自分も含めた)誰かが実際、その場の作品を観たとき、どのような感触を得るか?など、判らないし、作り手があらかじめそれをわかった気になるのは思い上がった、甘い考えだし、その後見知らぬ想像の彼方にいる誰かに拠って観られる事もあり得る可能性を考えないのは愚かな事だが-- しかし、ここ数日間「こうすれば、こう思ってくれるのではないか?」という考えを、全く捨て去って作品に加筆したのか?と言えば、それは否定が難しい。「これは喜ばれるかもしれない」とか「これで大丈夫なんだろうか?」という不安に終始付きまとわれていたと言っても良い状況でいた。


これは、僕の個人的なこころの弱さの問題が大きいのは勿論の事だが、それに加えて過去、自分が作ってきた作品が、如何に今の「心をいれかえてからの」感覚とは別の何かを支えに作ってきたか?というギャップの大きさに由来する不安であったりする。というか、それは端的に、過去の自分と今の自分の違いを指し示してくれている事態なのだが、実はこれは今に始まったことではなく、2004年に「心をいれかえてからの」制作というのは、「心をいれかえる前の」制作および制作を支えていた「何か」との、正面きっての戦いなのであり、自分が悩むべきほんとうの問題を決める苦しみであったりもする。…さて、どのような着地点に、今回の小品群をもっていくのか??


…と、まあ、そんな上記のような事をぼんやり思っていて、ここ数日を過ごしているのだが、今日福田和也の「贅沢な読書」という本を読んでいたら、その中でヘミングウェイの書物が紹介されていたのだが、こんな文章があって、結構驚いてしまった。

ヘミングウェイにとって比喩は、イメージを膨らませるものではなく、むしろ限定するものです。作家自身が持っているイメージを、狙撃の名手が撃ち込むように正確無比に読者の感性に届ける。比喩はヘミングウェイにとって、ナイフと同様の武器、一閃するときには必ず骨を絶つものです。


「比喩の冴え」を表すのに用いる言葉としては、とりたてて、なんという事のない、さほどの事もない言葉だという人もいるかもしれないけれど、僕が驚いたのはヘミングウェイが使っている技術が「イメージを膨らませるものではなく、むしろ限定する」ものだという記述だった。


この言葉が、たとえば小説なり絵画なりを構成しようとする事とは、構成のきっかけとなった最初のイメージが自分に与えてくれる豊かな情報の質量に拮抗するような何かを立ち上げる事である。という考え方を、一気に遠ざけてしまい、僕は昔、そんな事を全く考えていなかったという事をふいに思い出して、むしろ、そんな風に「狙撃の名手」のように、見事な技で的を穿つ事こそを素晴らしいと思っていた事をリアルに思い出して、それがショックだったのだ。


しかし、そのまま図に乗って言ってしまえば、僕はここ数年、今までずっと制作しながら、僕は元々、そのように考えていなかった。という事を無意識に何度も反芻していたような気もする。というか、そのような事とは違う(としか言えないような)制作の瞬間にこそ、僕のこころは、言葉にならない喜びを感じていたし、そのような自分を野放しにすると、おおよそ違う絵になってしまうのではないか?とも感じていた。しかし、今とは違う考えでやっていた昔に描いた絵を、今観て「良い」と思えない自分も確かにおり、じゃあ、いろいろ迷ってなんだかんだ言って、結果的にやっぱりここ数ヶ月のものが一番良いのか?と言ったら、困った事にそうでもなく、なんとなく具体的な鑑賞者の顔を思い浮かべながら意図せぬうちに昔に戻ったような感覚になって来つつある最新作の小品群が、これで良いのかどうかについても腑に落ちず、どうも自分にとって最も成果が上がったと自己評価できる作品といったら、それらの制作時期は、去年の秋頃〜今年はじめまでだったりする。だから数日前にも書いたように、このあたりの絵を一つの成果として、一度は展示させると決めてFIXしてしまったのだ。でもなんでこの時期のものが自己評価して一番なのか、さっぱりわからない。絵なんて単なる幸運で上手く行く事も多いだろうからしょうがないのだろうが、そういう話でも済まされない何かがある。そして、もちろん、僕以外の人がそれを見て「確かに良いね」とか「たしかに駄目だね」とか「ふつうだね」とか言ってくれる保証は全く無いのだという事もはっきりしている(というか、まあ、そんな事気にしてると体が持たないので、そういう事はなるべく考えないが。)


で、「僕は元々、そのように考えていなかった。」という事が思い出させた事として、とにかく自分にとって、かつては「イメージを膨らませるものではなく、むしろ限定する」「ワザ」こそが、表現と呼ばれるもののパワーであったし、相手にそれこそ暴力的に到達させる「ワザ」こそが、「絵」であったのだ。


そのような志向を持つ表現者というのは「ワザ」の冴えで一方的にコミュニケーションを図ろうとするほかないし、描く理由が想定された観客に強く依存してるため、コミュニケーションに敗れると、いきなり描く理由を喪失してしまうという、そんな、ほとんど「芸人」的な特性で生きるという、生きながらひたすら制作という本来の長期戦を戦うのに極めて不向きなタイプで、一部の最初から飛びぬけた「芸」のある者だけが、そのようなスタイルを貫けるのだが、素人にはお勧めできない…。僕のように長い沈黙を余儀なくされ、その後「やっぱまた描きます」っつって出てきて、懐かしのあの人みたいな眼差しで見られる事になるのだ。若い人よ気をつけろ!!…って話がずれまくっているが、そういう事がいろいろ思い出されて、ああそうかそういうことだったのか。なんか納得したよむかしのじぶんに乾杯。と思った部分が多かった。


ただ、また話が戻るが、表現の洗練された技術として、「イメージを膨らませるものではなく、むしろ限定する」という言葉はやはりちょっと単純すぎるとも思う。というか、ここで言われようとしている事は、単純に、「あるイメージがすごくフレッシュに、目の前にある」という事であろうと思われる。ちなみにここで福田和也が褒めてる文章がどういうのかというと…

一人の女がカフェに入ってきて、窓近くのテーブルに一人で腰をおろした。とてもきれいな女で、新しく鋳造した貨幣みたいに新鮮な顔をしていた。「サン・ミシェル広場の良いカフェ」福田陸太郎 訳


というもの。その「新鮮さ」を実現するためなら、素晴らしい鮮やかさで、それが浮かび上がるのであれば、どれほどの暴力でも、どれほどの無秩序でも、どれほどのだらしなさでも召還されるだろう。というのが絵画や小説なのであって、その事さえ忘れなければ、イメージが限定されようが膨らもうが良いのだとも思う。


…まあ、僕の場合、人物画という反動的かつ保守的なテーマで制作している事もあり、確かにまだ手癖で行ってしまう箇所があるし、「いやここは手癖で行かなきゃ駄目でしょ!」と感じる箇所さえもある。手癖で良い。と思っているという事は、絵画の一部について、ここは「新鮮」でなくても良い。と言ってるに等しく、人によってはそういうのは耐え難いだろうが、これはもう、生まれつきの感覚なので、どうしようもない。今後、どうなるかもわからないが…。でも、まあ細かい部分が気になりつつも、やるしかない。。