自分で吐いた毒ガスに死す


前に「トリビアの泉」を見ていて知ったのだが、ゴレンジャーに出てきた敵の怪物で、体内から毒ガスを放出して、周囲の一般人を死に至らしめるのだが、その怪物自体も、自らの毒ガスで死んでしまう。という話があったそうだ。ミツバチも一度刺すと死んでしまうから、似てると言えば似てる。


ところで漫画家の荒木飛呂彦の作品で「バオー来訪者」というのが昔あった。…このバオーは、体内の寄生虫が身の危険を感じると、宿主の人間に対して「武装現象(バオー・アームド・フェノメノン)」を発動させ、並外れた身体能力と様々な体内武器の使用を実現させるというもので…詳細はWikipedia「バオー来訪者」を見て頂くとして、この漫画は中学生時代に夢中になって愛読したので、今でもかなり細かいところまでよくおぼえているのだが、このバオーの武器「メルテッティン・パルム」では、手のひらから強い酸を放出し、壁やなんかを溶かしてしまう訳だが、なぜ!手のひら自体が溶けてしまわないか?について、漫画中に解説があったのを憶えている。要するに、手のひらも、当然の事ながらどんどん溶けているのだが、バオーの内部能力で内側から新たな細胞をどんどん新規作成しているので、結果的に手のひらは問題がない。という事なのであった。


さらに、考えがどこかに行くが、昔、中学生くらいの時期というのは、第二次成長期という事で性的関心も高まり、いろいろと煩悩を抱えがちである。そんな時期に見た成人指定の雑誌やら漫画等の印象というのは、大変刺激的であった訳だが、そういうのを見ている楽しさに飽き足りず、自分でもこっそりエロ漫画を描いてみたりもする訳である。


しかしそれは、なかなか上手く行かないものである。まず第一に、僕が試みようとしている「エロ漫画を描く」という行為は、いったい何か?という事がある。馬鹿な中学生の僕は、描く事がそのまま性的愉悦感をもたらすという期待を込めていた。しかし、描き始めると、それは性的愉悦とは違う、描く行為とそれが齎してくれる感覚であった。


自分は、まず「描く」事を成し遂げないと、それを最初から見直して「性的快楽」を楽しむことができないのだ!ってあたりまえだ。馬鹿か俺は。要するにそれは、快楽を貪る行為ではなく他者へのサービスに近い行為であったと…


さらにはっきりと判ったのは、人の劣情を刺激せしめるようなイメージを描くためには、まず何よりも人体の正確な描画が必要不可欠であるという事であった。物語を思い浮かべる事は、容易な感じに思えた。(性的シチュエーションを想像するのは、性的愉悦を感じてる事とある程度近い。もちろん突き詰めるとやはり「冷徹さ」は要求されるだろうが)…それを認識して、改めて既存のプロ漫画家によるエロ漫画を見てみると、どれも非常に、上手いこと描かれていて、今まで気づかなかった描き手の、醒めた仕事ぶりを感じて、なんとも寒々とした気分にさせられた…。


しかし、中学時代の僕がそこで疑問だったのが、「プロのエロ漫画家は、自分が描く漫画のエロさにやられたりはしないのだろうか?」という事であった。描かれていくエロいイメージの、あまりのエロさに、冷徹な作業が不可能になったりはしないのか?と。


これは、大人になれば誰でもわかること。(中学生でも、僕のような阿呆以外は判るんでしょうが…)これの答えは「自分が描く漫画のエロさにやられたりはしない」である。自分の描く毒ガスで倒れる事はないのだし、エロにやられているけど内部的に後から後から別のエロが新規作成される訳でもない。プロのエロ漫画家は、漫画を描いているだけなのだ。その仕事を終えた後で、自作の漫画を読者として楽しんで、性的愉悦に浸ることもできるのかもしれないが…。しかし、ちょっとそれは、考えにくいだろう。自作のエロさを誰よりもよく理解してはいるだろうが、一般読者と同じように単純に楽しめるか?は別の話だろう。…エロ漫画家というのは、なんか損な、孤独な商売なのかもしれない…。