チャタレー


さっきまでたまたまテレビでやってたレディ・チャタレーという映画を観ていた。20世紀初頭のイギリス上流階級の奥さんが使用人の森番と浮気する話であるが、この奥さんは、お話の中で、自分の使用人である森番の男と、ひたすら浮気して、そして、ひたすら雨に濡れるのである。情事のあと、身支度を整えて自らの敷地である広大で深い森の中を早足で歩いて自分の屋敷へと急ぐ途中で、雲行きがあやしくなり、やがて雨に降られて、そのままずぶぬれになってしまい、それでもうっすらと頬を上気させ、口元からかすかに笑みがこぼれてしまい、自分の全身に血液がしっかりとした圧力で圧し流れている事をはっきりと感じている表情の、まさに心身が完全に活性化しているときの女性の顔で、すばらしい勢いでずかずかと大地を踏みしめて、浮気の後、家路を急ぐのだ。性交や、雨に打たれながら歩くことや、木々の織り成す網目状の隙間から差し込む木漏れ日の揺らぎを見上げる事など、それらすべてが、とてつもない肉体的な愉悦とダイレクトに結びついていくときの、ほんの一瞬だけでも世界がすべて自分の側にあると錯覚できてしまうような瞬間が、主演女優の仕草や表情に浮かび上がっていて、そういう感触はちょっと良かった。それに較べて男性という存在の欲望の、何とみすぼらしく単純な有様であることか。男性の欲望の内実を、絵であらわすとするならば、それはもう単純に、ぶいーっと油性マジックかなんかの線で引いただけの、その何の変哲もなく表情もない線の、そのはじめからおわりまでの事それだけでしかないのではなかろうか?でも、その線の内実よりも、そこに線があってそれをとにかく、何か幻想的なところに埋め込んでしまいたい、それを認めさせたいということだけが、男性にとっての関心の中心で、だから欲望の対象たる女性に対してはほとんど余所見をしながらでも容赦なく襲い掛かる。でも、目の前に女性の肉体があるにも関わらず、それでもそこに何もリアルなものが見つからなくて、まさに「隔靴掻痒」という四字熟語そのものであり、女性の肉体に触れる、ということそれ自体に愉悦を感じるのではなくて、女性の肉体に触れる、という行為を為している自分のイメージ、というところまで遡らないと愉悦にまでたどりつけないような感じである。映画の中の森番に与えられた性格は、もう少しだけ複雑な余韻を有しているようにも感じられるが、しかしここでいう男性の欲望の貧しさとは、もはや生物学的な原理的な話である。結局男性というのは、何事につけても、リアルタイムで体験するのではなく、思い出すということしかできない生物なのかもしれない。