「ツルリとしたもの」を描く


僕は残念ながら、あまり手が綺麗ではない。僕は子供の頃、自分の手や足を自分で好きであったような、微かな記憶があるのだが、そういう幼いナルシシズムが、誰にでもあるのかないのかよく判らないが、とにかくその後、成長していって、…成長するというのは自分が自分の意思と無関係に、何か別の方向へ伸び盛っていくという、大変不気味な残酷な悲しむべき事であるから、その事実にショックを受けながらもやがて慣れ、やがては当初の自分への幼い愛着を失っていく。という過程を経たのだと思う。まあしかし、あるタイミングで、自分の手が(他人と比較して、相対的に)あまり綺麗なものではなかったと認めざるを得ない瞬間というのはあって、それは軽くショックなのである。僕だけではないだろう?(あれ?僕だけ???)


しかし、大人になっても手の綺麗な男性というのが、たまにいる。いや、大人の男性の手だからこそ綺麗なのだが。そういう男性の手は、確かにほんとうにキレイで、非常に艶やかで筋張った骨ばった感じとしなやかさの絶妙なバランスの取れた感じが美しく、女性でなくても見とれるような思いに囚われる。


しかしこういうのは、かつての幼い頃の、まだ充分に発育していないがゆえに新品の輝きと滑らかさを保持していたであろう自分のからだの表面に対する「郷愁」というかたちで感じられるものなのだろう。それは他者の肉体の部位に対して、性的な嗜好を感じる際にも強く作用するのだろう。かつては自分のものであったはずの質感とかフォルムを認めて、それへ回帰したいという奥底の願望が動いているのだろうと思う。(自分の中に全くあり得ないかたちや質感を認めて欲情するよな性的嗜好というのもあるのだろうか?)


大塚英志の「江藤淳と少女フェミニズム的戦後」で江藤淳を「ツルリとしたもの」を必要とし、抱きしめずにはいられなかった人と書かれていたのを読んでから、自分自身へのこの「ツルリとしたもの」の呪縛を、事ある毎に感じている。僕の勝手な思い込みではあるが、観る物すべてに、もう失われてしまったかつて存在した私のなめらかなからだ→居心地の良い、摩擦係数のとても低い快適な場所。への願望を読み取ろうとしてしまう。


この前見た、オペラシティ・アートギャラリーでのプロジェクトN/山内崇嗣展で感じたのだが、その形式とか方法より何より、まず感じられるのが、こすり付けられている絵の具のやんちゃ性であり、剥離液がぽたぽたとこぼれる事の悪戯めいた楽しきデタラメ性であって、これらが顔に浴びせかけられる液体のイメージにも、半ズボンからこぼれる精液のようなイメージにもニアミスしつつ横溢していた。そんな中であの不思議な形の、木の描写には、描いてる人の「ツルリとしたもの」への無防備といっても良いほどの耽溺が感じられた。(しかし全体を見渡して何か、そういう事ではなさそうな感じも、会場全体から感じられる気もしていて、相当誤解した感想なのかも知れぬではあるが、しかし僕的には直感な感想の方で、むしろ積極的に誤解してみたい気持ちになった。というか、どういう言葉の受け入れでも可能になっている印象があって、それが逆に言葉を言い辛く感じさせる気もした。) (というか、後でweb上の図版でみると、さほど「ツルリ」とした印象でも無いトコロが、本稿の破綻を感じさせなくも無いのだが…)


また、なんかの小冊子の中で、いま開催中のダリ展の紹介記事を見てたら「ラファエロ風の首をした自画像」という絵の図版が載っていて、印象派風の背景を背にダリ自身かと思われる人物がこちらを見ているのだが、この人物の肩から頭部に掛けてのシルエットが勃起した男性器にも見え、まあこの絵自体については、ああこういう絵の二番煎じが、今まで世界中で何万枚描かれて来たのだろうと思わせるような絵なのだが、こういうのを描いてしまう欲望もまた、失われた何かに起因するのだろうと思う。(失われたポテンシャル!とかいう意味ではなくて笑…あくまでもフォルムと質感から感じられる、幼い頃の郷愁の事) …具象的イメージを描く人というのは(僕もそのひとりだが)、具象的イメージを描きたいと言うよりは、ある滑らかさとか、きめ細かな質感とか密度とか手触り感を描きたいと思ってるのが大半で、それは概ね、この「ツルリとしたもの」への回帰願望をモチベーションにしているのであろう。(知り合いのSちゃんは大理石をひたすらツルツルにする事に没頭していて、実家の空き地にはツルツルになった大理石の作品なんだかそれ以前なんだかよく判らないものが軽トラックで運ばれてきてゴローンと寝かされて、そういうのがあちこちごろごろ散乱していて、これは結構怖いです。)