インターネットがあってほんとうに良かった


…と言う話。僕は高校一年のとき美術系に進学しようと思い、1990年に美術学生となった。学校を出たのが1996年で、そのあともしばらくはアルバイトしたりしながら制作したが、やがてモチベーションを低下させ制作活動停止。たまたま面接話のあった会社に就職した。会社員としての生活は新鮮で楽しく2〜3年はかなり夢中で仕事をしていた。コンピュータに触れたのも、インターネットにアクセスができるようになったのも、就職後である。


結局僕は2003年末頃から、サラリーマンでありつつ、制作も再開した訳だが、インターネットは僕に、制作する事の根本的なモチベーションを与えてくれたと思っている。


ところで僕は、今のところインターネットというシステムがもってる可能性とか危険とか、そういうのにはあんまり興味がない。ただ、インターネットという通信技術の、その先に人がいるというのが素晴らしくて、それだけが僕にとって、制作する事の根本的なモチベーションと成り得るのだ。ただしそれは、インターネットを使って効果的にプレゼンできるようになったとか、何かコミュニケーションできたり作品に応用したりできて可能性が。。とか、そういう話とは違う。


コンピュータ間の通信というのは、昔から存在した。WWW普及の前はプロバイダーのホストにクライアントがぶら下がる構造の云わばパソコン通信が主流であった。僕が言いたい事、というか僕がとても大切に思う感じ、というのは、かつてパソコン通信していた人や、更にもっと昔の実験段階にあるような通信方式でも充分に、いやそれどころかより一層強く感じられた事なのだと思う。簡単に言えば、それは何か、まだ人格とか感情とを形成する前の、人らしきイメージの気配が、モニタ表示されてる電子空間の向こう側に感じられる事の、信じられないような驚きのことだ。


たとえば匿名掲示板なんかだと、些細なことばの枝葉末節に対して、夥しい数の対話とも独白ともつかぬ別のことばが鈴なりに連なっていく。こういうのは確実に接続状態にある事の安心感(今、ここで利用しているサービスが揺るがないことの安心感)からしか生まれない小騒ぎであって、こういう場合、向こう側にも自分と似たような誰かが居るという事がはっきりと前提されてしまっている。こういう接続の安定にのっかったような気分の状態だと、僕が感じたい感じというのは、消えてしまう。


インターネット上でやり取りされる言葉というのは、大げさに考えれば(事実そうなのだが)まず通信技術および電子製造技術(およびそれを支えるエネルギー産業)なしでは成り立たないようなものだ。また、通信事業各社や接続業者やサービス系事業の提供するコンテンツに、深く依存してもいるだろう。


であるからして、やはりそれらが結果的に可能にしてくれたモノの枝葉末節を細かく吟味するよりは、今、ここで僕が通信できてる事自体の喜びを何度でも再確認した方が良いだろうと思ってる。それは、あらかじめ工場でメディウムと調合され、使いやすくチューブに詰められて販売されている絵の具を使って絵を描いているという事実を何度でも改めて認識する。という事にも近いかもしれない。そして、画面の向こうに人の気配に、何度でも新鮮な驚きを感じるという事。