元々そうなのだが、とくに若い頃は自分本来の非常にいい加減な体質をそのままさらけだして、だらしなく平然と、約束も義務も果たさず遊んで怠け続けるような人間であって、そういうだらしなさを恥ずかし気もなくまったく隠しもせずに生きていたので、そんな自分がその後何年かして、物事をスケジューリングするとか工程を管理するとか進捗をチェックするとか、そんな事をやることになるとは、まるで夢にも思ってなかったのだが、でも今はさすがにそういう事をしないわけにはいかない状況もあるのだ。でも、たとえば、工程管理というのは、あれは結局、A→B→C→Dという工程を経て、成果物Eを生み出すというのの一連の流れすべてを管理するという事なのだろうけど、実際やってみるとどうしても、一連の流れすべてどころか、チェックの仕方が、今、目の前で起こっている事態にすべて引きずられてしまう。要するに、たとえば今、Aの工程が火を噴いてたら、その事態を気にする事で、自分全部のリソースを使い切ってしまう。。それだとほとんど管理にならなくて、おそらく気にするべき対象というのは、いつ如何なる時でも、如何なる事態の出来中にあっても、目の前の火の車になってるAではなくて、まして未だ実現せぬEでもなくて、常にA→B→C→Dという工程の結合体たる想像上の成果物E’なのだ。すなわちAがダメなときやBがダメなときや、全体がそこそこなときや、もうボロボロのときや、それぞれの状況に応じた、架空のE’をいくつも思い浮かべなければいけないのだ。しかし逆にその想像がスムーズにいきさえすれば、今そこにある問題への対処がもっとも効率的な対処にもなりうるのであろう。
変な話だが、僕は若い頃は、絵を描いていても完成させるのがヘタだったのである。自分がやろうとしてる事の落とし前をつけられないというか、自分がやりたかったことに自信がなくなってくるというか…。そういう弱さで、絵をフィックスさせる事ができないというのが、多少は誰でもあるかもしれないけど僕は特に顕著だったと思う。今思い出すと、その理由は完全に、自分が架空のE’を思い浮かべる力が無かったからではないかと思う。いや今だって情けないのは変わらないけど、昔よりはなんぼかマシになったのである。ほとほと情けない話だが、僕は20代も終わり頃にサラリーマンになってはじめて、色々と社会性みたいなのも学んだり、自分の性格をある程度抑制させたりできるようになったり、そういう風に、まるで車の運転を学ぶみたいに、今の世の中で何とかやってくというのを学んだ部分が大変多く、その結果、それこそ絵の制作においても、昔よりは今の方がよっぽどちゃんと、自分なりに自分の分みたいなものも知ったつもりになって、ある種のあきらめも感じつつ、普通に制作の格好をとれるようになったのである。なので僕に限っては、サラリーマン経験は有意義で、なかなか馬鹿にしたもんでもなかった。っていうか今もサラリーマンだが。
でも絵の制作においては、ちゃんと人並みに社会人のふりができて、日曜日には画家の格好に着替えてちゃんとした制作の格好して、それさえすれば「良い絵」が描ける訳ではない、など言うまでもないことだし、むしろそんな方がヤバイのでは?、という疑いももっともだ。でもそういう人はおそらく、もともと僕と違って、性格的にも先天的にちゃんとしてて、しっかりと自分で自分を律してやれる人なんだろうと思うのである。自分で自分をちゃんと冷静に見つめている立派な人なのだ。僕なんかはもう、外からギブスで固定してないと自分一人の力で立ってる事すらできないような人間なのである本来は。だから僕の場合に限ってはそれで良かったのであった。という話でした。