ふたたび、インターネットがあってほんとうに良かった


…という話。描き続ける理由であれば、いくらでも考えられるのだろうが、描かない理由なんて無いと思う。というか普通であれば描かないと思う。今、普通に生きている人間は、誰も描かないし、誰も描かれたものを観ないと思う。


僕がかつて、美術制作にモチベーションをなくしてしまったときの事だが、やはりそこには相手の見えない不毛さがあった。やはりいくら描く事があっても、それらをひたすら暗闇の放り込んで、まったく応答がないという状態には耐える事が出来ない…というか全く情けない話だが、当時、これ以上続ける事は「現実的じゃない」とすら思った。


そして、そのあと、インターネットにアクセスしてみると、そこにはまだ、美術制作に関わる人々がおり、それらの人々は、基本的にはすべて孤独に、電子空間上に点在しているようにみえた。


インターネットは便利なものである。そういう人々とコンタクトを取って、やり取りしたり対話することさえ可能だ。場合に拠っては連帯だって、可能かもしれない。友達にさえ、なれるのかもしれない。作品について対話したり、互いに励ましあって、共に制作に励んだり、そんな事すら夢ではない訳だが、しかし、それらの人々は、基本的にとても孤独なのであって、それは(制作者であれ鑑賞者であれ)たぶん美術に関わる人が不可避的に纏わなければいけない孤独感なのだと思った。そしておそらくは僕もそれなりにはなおも孤独であったから、だから僕は、只なんとなくぼんやりと、それらの人々を好きであった。ほんとう、インターネットが無ければ、存在を知ることすら出来なかった人々を!


(しかし僕も、かつて対話を試みた事もあるし、大変嬉しい事もあったし、結構辛く「痛い」事もあった。自業自得だが相手に対する自分の非礼や過失の記憶ほど苦しいものはなく、今思い出してもわーっと叫んで布団から飛び起きたくなるくらいのトラウマであったりもする…それは頭を冷やすとはじめて相手の感じたであろう不愉快さや痛みがはっきり想像できるから、そのイメージに仕返しされる感じで、これは辛い。)


それで、あれから何年か経って、お話はずんずん続いていく訳で、今いろいろ考えて、僕がこうして今、blogとかを書いてる訳で、かつてのように直接対話したりという事ではなく、とにかくあるウェブスペース一箇所で、私に纏わることばを連ねておく事が重要だと思っている。それがどういう遍歴で、どういう経緯で今、ここにものを書いて、それが僕にとって何になるのかとか、人に読ませる意味とか、うまく説明できないが、僕はとりあえずインターネットにアクセスできて本当に幸福だ。よかった!とたぶん思っていて、かつて僕がアクセスしたり、今僕がみている電子空間上の、「人の気配のようなもの」に対する、まあ大げさに言えば感謝の気持ちのようなものが、なぜかこういうかたちになっているのだと思う。(その気分を曲で言えばbeastiesのGraritudeなんだけど笑)まあ伝わらないかたちではあるのだけれど、結局、直接伝わらないかたちでしか、感謝(Graritude)をあらわせないのだが…。僕のこの文章も、結果的には電子空間上にただ点在して、浮かんでいるもののひとつであれば良いかと思っている。


恥ずかしい言葉かもしれないが、今、自分が、この孤独で不毛な絵画制作を行い、これからもずっと続けるのだというとき、細かな言葉の枝葉末節なんかではとても頼りないのだけれど、今、通信出来ていて、どこの誰とも知れぬ相手が向こうにいる事が確かだという事(少なくとも僕はかつてそれを感じた。という事)。僕の不毛で孤独な行為とは全く無関係だけど、それでも、今この瞬間にも、何らかの行為が行われているのだろうと感じられる事こそが、それだけが絵画制作の、根本的なモチベーション足りうるのだ。


っていうか、それ以外の事を(それこそ観てくれた「人」から、直接作品に対することばを頂くなんていう体験以外では)なにもモチベーションにしたくないという気持ちすらある。要するに、現実にはいろんな場があり、実在の「人」が居るのだが、僕はそういう場の向こうの、「見えない人」の事を考える割合を多く持っていたいという事かもしれない。