Walls & Bridges

上野の都美術館で「Walls & Bridges 世界にふれる、世界を生きる」を観る。最初の展示室で、ジョナス・メカスが(2000年)に制作した四時間以上にもおよぶ映画作品が上映されている。たぶん二十分かそこらの時間を観ていただけだが、これだけを全編観る目的で本展覧会を訪れたとしても充分だと思わせる。というか、今日が展覧会の最終日でなければ、ぜひ日をあらためてそうしたいと思うような映画だった。観るというより、目が惹きつけられてそのまま離れられなくなるような、「映画」としか言いようのないメカス的な作品。

展覧会全体として、有名作家や非職業的作家を含めた各出品者の作品のそれぞれの印象に似通ったところは無く、成果も目的もまるで違う作品が並んでいるのに、それらがなぜかゆるやかに連携するというか、ゆるやかな距離をもって隣り合いつつそれぞれの方角を進んでいるというか、ある親和性をもって展示空間が構成されているようで、自分はもともと展覧会全体の雰囲気みたいなものにわりと無頓着で、個々の作品を観ることで感じるものを優先したいと考えがちなのだが、それでもこの展覧会が総合的な印象として醸し出している何かを、好ましいものに感じはした。

増山たづ子の写真は一見、なつかしさや情感に満ちた良い写真に過ぎないようにも見え、もちろんそれだけでも充分に魅力的な写真群なのだが、それらの写真がアルバム六百冊分、およそ十万枚も残されているという事実を知るとき、何か得体の知れない感覚が沸き起こってくるのを感じる。展示室内に「アーキビスト(記録者)」との文言が掲げられていたけれども、この小さな村に突如として半人間/半記録装置みたいなものが介入してきたみたいな、夜も昼も村人たちの合間をさ迷いながら、機械音を立ててひたすら撮影し続けるみたいな、まるで顔半分がカメラと化したおばあさんのイメージを思い浮かべてしまう。たぶん増山たづ子ご本人が、村人の一人、共同体を構成する一人として他の人々と自然にうちとけ合っていたのは、被写体になった人々の表情からも伝わってくるのだが、それでいてなお、やはり撮影すること、記録し続けることの本質的な異様さも感じてしまう。制作者の立場であること、ある目的に執拗にこだわり続けることの、避けがたい孤独の気配が、どこかにあるような気がする。

シルヴィア・ミニオ = パルウエルロ・保田、ズビニェク・セカルの作品が一室にまとめられた展示室も良かったし、最後の東勝吉は、あるきっかけやタイミングだけで、人はこんなふうに「絵」に目覚めてしまうものなのだな…と、なにか不思議な宿命のようなものを感じた。人間個人が一生懸命努力するとか、そういうこととはまた別の、絵画を成立させてしまえる、そう確信できる契機というのがあるのだろう。ただしこれらの作品群が、僕は個人的に絵画として特別すぐれていると感じたわけではなくて、あまりにも素朴で少し辛くなる部分と強烈に突き抜けてる部分が混在しているようで、しかしこの人はたぶん確実に、描くということの何かを掴んでしまっている、図らずも「かなめ」のところを話さずに握りしめてしまった人が、その感触をたしかめながら、とり付かれたように制作を続けてしまったのだろうとは思った。「そのような省略はシャープで小気味よい」「そのような形態の処理がセンスいい」などという、世間とか一般の声が体よく伝えてくるような絵画の良さから切り離されて、どこか遠くからやってくる「ある正しさ」に近いようなセオリーにしたがって、おそらくそれらは描かれたのだろう、と。