「全景」再見


東京都現代美術館で開催中の大竹伸朗の展示のうち、前回行って記憶に残った何点かのものを、もう一度心行くまでじっくり観るために再度会場へ行く。夕方から閉館までの1時間半観てたのだが客の多さに驚く。すごい人気だ。


じっくり観たいと思ったのは紙にインクや鉛筆やコラージュで作られた小作品群が多くて、これらひとつひとつが僕はもう異常に好きで、観てると喜びで胸がドキドキと高鳴ってきてしまうほどなのだが、今回、絞り込んだ点数だけを淫するほど見尽くして思ったのは、やはりこれは、このようにいつまでも果てしなく、どこまでも続いてしまうような「良さ」だ。という事であった。これは、もういつどこで見ても良いに決まっているような「品質保証」とでもいいたくなるような安定があって、…であるから僕は多分たまたま路上に見かけた壁の染みや、たまたま目にした何かの痕跡を明白に美しい安定した良さとして一時間半みていたような感じなのであった。


何か描かれたり貼られたり剥がされたりしている表面があって、そこに刷毛で引かれたホワイトの掠れた筆致が重ねられ、調子を落とされてるだけで、そこに行為の積み重ねとか、古びた感触とか、まあ歴史のような、そういう手触りを感じさせるのがこれらの作品群である。それは、その描画行為(描く人の技術)が超・冴えているとも言えるし、人なんか関係なくて、もうどうやってもカッコよくしかなりようがない。…というか、絵画が絵画として面白いっていうのは、結局こういう風にしかなりようがない。。という感じもある。


この前テレビで大竹伸朗が船の残骸を拾ってきてそれに筆で加筆しているところがやっていた。(今回の展覧会で一番最後の出口の手前に掛かってる作品であった)そのときインタビューで「(その残骸が「良いもの」として)はじめからもう出来てるから、それを手を加える事で如何に良さを無くさないようにするかってトコなんだよね」みたいな事を言っていた(ように記憶する…)


でも、美術っていうのは、そういう初めから最高の状態にあるものに、余計な汚しを加えることからしか始まらないのかもね。と言うのが、感じられた。というか、何か勢い付いて、ダサくてOKだしありきたり最高だし汚してナンボなのが美術じゃねーか。とも思ったりしたり。