「Live Beck!」Jeff Beck と「Post Live」Björk


ライヴ・ベック!     Post Live


ジェフベックのライブ盤を聴きつつ、新しいとはどういうことか。を考える。ジェフベックのサウンドというのは、もう昔から何にも変わっていない。ズズタン・ズズタンに合わせて弾きまくってるだけである。あるいはズッタン・ズッタンだったり、ズンガダッカ・ズンガダッカだったりするくらいのもので、その上で弾きまくってるという部分は一緒である。しかし常にとてつもなくフレッシュで目が覚めるようなサウンドとはこういう事を言うのだという感じ。ギターの音が出ていないときと出ているときの違いを、途轍もない断絶として捉えており、かつその事を事実として冷徹に認識しており、それを知った上で弾いたり弾かなかったりしているとしか思えない。その変わり目の、通常なら気づけない程のかすかな境界線を鮮やかに捉え、それまでの静謐から、轟音の濁流へと一挙に空間を変貌させてしまうようなプレイだ。ここで聞かれるプレイは、あまりにもラフで無防備で、所謂集中力を高めきった渾身の演奏。というイメージからは程遠いのであるが、それだからなおさら、演奏者が自分の音楽で捉えて置かなければならない最低限のポイントが、あからさまになっているかのように聴こえてくるのだ。


しかしこのように、「良い」と思った音楽の、自分が感じた印象とか有様を一生懸命言葉に置き換えようとして頑張るというのは空しい気もするが、きっと何かの良い修行になっているのだろう。しかし難しいのは、大体こういう感じでモノを言いたいときの常套句が脳内候補に上がってきて、これとこれの組み合わせで説明としてもっともらしい言葉になりそう。とかいう小賢しい計算を、どうしてもしてしまう事であるが、それだとそもそも書く理由であったはずの、最初の名づけ難い感覚を言語化する目的が遂行されないから駄目なのだ。書く事自体が目的で書いているわけではないのだから。その点に妥協なしで続けるのは、とても大変な事であるが、ある程度連続して何か書く場合、どっちかっていうと、妥協したい心との葛藤が一番大変かもしれない。


だから後で読んで、何が書いてあるのかよくわからない事は自分にとっては、悪いことではないと言える。まず自分最優先の文章。自分以外の人にとっては何の役にもたたない文字列の羅列かもしれなくても気にしない。再度、同じパターンで再チャレンジする時の素材ともなるだろうし、まあ深く考えても仕方が無いので気楽にやるが、それでも楽な方へ妥協しないようには心がけたい。


ジェフベックについては、古いフォーマット上で常に新しい何かを生成する。という意味の事を、まず最初に説明して定義付けたいと思った。この文章の最初のところで! …それで、ジェフベックとは別の、全く新しいフォーマットで常に過去の何かを再現させようとするような、そういうミュージシャンの事例と対比させたいと目論んだのであった。この文章全体で。それが今日の文章の概要だ。


しかし、ある意味これも小細工でありおそらく妥協の産物なのである。・・・というか、そんな大げさに言うほどの話じゃない稚拙な遊びではないか。でもこの幼い目論みを成立させたい為だけに、ふたつの音楽を召還して来ているのでは?と自らを怪しむ。そもそもこれらの音楽は、このような語られ方が相応しいのか?とか、いい様に都合よく語られてベックもビョークも気の毒だ。でもこんな風に語られてこれがblogの素敵なトコロだ、とか、そういう考え方をすると深みに嵌るのでやめた方が良い。マジで実際こんな事書いていて、一体何の意味があるのか?といつか根本的に問わねばならない事にもなる日が来るだろうけれど…。


…まあ、それはともかく、ビョークのライブ盤を聴きつつ、新しいとはどういうことか。を考える。…しかし当初目論んだ、ジェフベックとの対比というアイデアに、今、現時点で、既にかなり白けた気分しか持てない自分がいるので、ここは方針変更して「ビョーク」と書き込んだことで今たまたま思い浮かんできた雑多な思いを踏み台にして、気が済むまでビョークに纏わる内容をこれから書く事にした。


シュガーキューブスの時代から、ビョークは歌手として突出しており唯一無比でありモンスターのようであった。ソロデビュー盤のアルバムジャケットはヤケに可愛かったが、あれがこの女性の本性だなんて誰も思わなかった。それを裏付けてくれるかのように、その後リリースされていったセカンド以降のアルバムでのジャケットにあしらわれたビョークポートレートは、手にとるのが憚られるくらい怖いものになって行った。


モンスターとしての歌手ビョークは、実のところ、それほど技術としての歌唱表現に幅がある歌い手ではない。非常に限定された、いくつかの技法の組み合わせで世の中渡ってるに過ぎないとさえ言える。ただそのひとつひとつの技が持つパワーの突出感がすごいのだ。


しかし、その幅の無さとか展開しない感じは、この歌手が本来自分の声だけで可能な限りを表現しようとする志向ではない事を物語っている。類まれな歌の力でシーンに登場してきたビョークだが、そのボイススペックの範囲内でパラメータを調節して、さまざまな音楽世界を構築しようとは考えていない。そうではなく、自分の声と関係し干渉し合うような、全く別種のバックトラックを常に必要とするのである。ビョークの声は制御されるべきものではない。ビョークがイメージするサウンドとは、みずからの歌と、作りこまれたサウンドクリエイティングとの関係に拠って生じたプラスアルファに他ならない。その声は、常に刷新され続ける最新鋭サウンドを猛り狂わせるための燃料のように降り注ぐだろう…。


そのような相互補完的関係を築くために、90年代半ば以降のビョークは、常に最先端のサウンドクリエイターを従えて仕事をしていた。自分の歌の土台となるバックトラックに、常に新しいフォーマットを必要とした。セルフプロデュースとなって以降も、サウンドクオリティの先進性に妥協を許さない姿勢は不変である。


なるほどなるほど。思いつきと勢いで調子にのって勢いづいて書いたけど、なかなかの発見だ。確かにビョークの芸風は元々単調だ。なんかもっともらしい感じにビョークについて書けたかもしれない。…っていうか、こういう話はともかく、ヴェスパタイン以降のビョークのアルバムって本当に気持ち悪くて嫌だ。あとダンサー・イン・ザ・ダークという映画をはじめて観たときは参った。あの後、一ヶ月くらいうなされて安眠できなかった。それにあのマシュー・バーニーと組んだときのアルバムなんか、iTunesでシャッフルしていて掛かると最悪で、変な細菌に感染しないうちに慌ててスキップする事になる。なんであんな気持ち悪い音楽を作るのかな。。あんなの重くて溜まらんよな。。日本でいえばACOもそうだけど、女性+エレクトロニカ=お化け屋敷という式が一時期成立してたよな…。


あと、この文章の下にあるヤツが、かなり早くから書かれてた結論部で、今となっては全然、上の部分と接合しないが、やれば接合するかもしれない。まあこれは脳内で接合された事にしておいても良いだろう。音楽のエンディングもそうだが、要するに終わったことさえ判れば、それで役目は完了なのだから。


古いフォーマットで演奏するジェフベックは、常にその見慣れた古ぼけた土台の上で、生まれたばかりの如く新鮮であり続ける事が必要なのであり、新しいフォーマットで歌うビョークは、常に刷新され、新鮮ではあるがその分荒涼とした空間をそれでも信じて、一定の音波を送信し続ける事が必要なのだ。