悪意の侵入を受け入れる事


元々本来は、ストリップでも見世物小屋でも映画でも何でも、そういう興行物というのは、その当初は仕掛ける側の心意気が、良くも悪くも、恐ろしくダイレクトに伝わってしまうような、非常にナマなものであったのだと思う。そういうのに、これまた非常に浅はかな、少しでもあぶく銭を稼ぎたい商売人が近寄って来て、とりあえず見世物としての体裁を整えて、町中のガキ共にチケットをばら撒いて、とりあえずやってしまって、後はズラかるだけであると…。


で、興行物にもジャンルというものが生じて、商売人たちは狡猾さを増し人数も増え、それぞれに異なるマーケティングが施されて、それでも「作り手」というのは相変わらず、目の前の作品それ自体の現前に、真っ先に翻弄されるほかない存在なのだけれど、それがある程度巨大な産業に乗っかっていて、同時に不特定多数のマスへ届くモノであるという事も意識されるのであれば、常に孤独な「作り手」から放たれる作品の姿は、おのずと誰とも知れない誰かに向けた「悪意」に近くなっていくのかもしれない。


「俺はとにかくお前に不快な思いをさせてやる。俺の作ったものを軽々しく体験しに来た事を後悔させてやる。後々まで呪いのようにお前の脳裏にこびりついてやる。しかし俺も只の子供ではないから、一筋縄ではいかない物分りのよさも兼ね備えていて、ある局面ではお前と何ら変わりない感覚を持っている事も充分に感じさせつつ、お前と全く接点の無い訳でも無い事を仄めかせつつ、それでも最終的には、桁違いの悪意と不可逆的な断絶を渾身の力で示してやる。それら全体で、完膚なきまでにお前を打ちのめしてやる。」


他者を想像すること。他でもない誰かに向けて、もっとも熱いメッセージを届けようと試みる事。その熱量が最高に煮詰められて具現化した姿を露にしたとき、その純度が高ければ高いほど、作品全体は構築過程を推し量れないブラックホールと化す。そこではもはや、どれほど巧みな細部を積み上げても、それら全てを呑み込むような「不穏」さとしての全体に届く事が出来ない。というかそのように理解する事を作品自体が拒んでいる。


そこで繰り返される暴力や恐怖の演出それらすべてに打ちのめされ、胸におぞましさが込み上げてくるのを抑えきれず、今、この体験全てが、不条理なまでの禍々しさとして立ち昇ってくるとき、それは作り手が提示し得る最上のサービス「愛」としての悪意が満ち溢れていてそれを最大感度で感受しているのであって、僕は胸のムカつきと貧血感に堪えながら、ひたすらそれを受け入れるしかない。