島尾敏雄「出孤島記」では、自らの死を決定づけるはずの出撃命令が遂に到来せぬままとなり、次の「出発は遂に訪れず」で八月十五日の玉音放送を迎え、それまで疑いもしなかった、確定したはずの「死」が翻って、にわかに「生」の可能性が己の内心に広がると同時に、これまで「死」を前提に構築されてきた組織の規律、内因、継続理由、それらがまるで氷のとけるように瓦解していくのを目の当たりにするという、それは自他ともにこれまで良くも悪くも自らを律してきたはずの前提すべてが崩れていく過程をまざまざと見ることそのものの体験で、その瞬間きのうまでの「特攻」も「玉砕」も、すべてが手の届かない夢のようなものになる。

たしかに主人公にとって、もしかすると「特攻」や「玉砕」はどこか観念上のものでしかなく、自身の根拠を投げ入れるに値する対象にまでは熟成してはいなかったのかもしれないが、それにしても事態がここに至ると、さすがに昨日までのそれら観念は、ある意味で「うつくしさ」のようなものに近くなる。そして、そのうしなわれた「うつくしさ」と引き換えに、生の「雑事」がおそいかかってくる。これまで自らの死を前提に、あやふやにしていたすべての些末な記録や取り決め事。これまで無頓着だったし、それで何ら問題なかったはずのそれらが一挙に、まるで債権回収のように煩雑な事務仕事として降りかかってくる。今生の別れを告げたはずの相手と翌日再会し、不透明なこのあとの時間を共有せざるをえない、そのような反復を日常と呼ばざるを得ない、しかも士官たる私が、このあと来るべき時と場所で、これまでの「責任」を問われずに「解放」されることはないだろうし、それどころか私の率いる部隊をこのまま何事もなく解散、解体させるまでの間に、私自身の生命が保たれる保証もまるでないだろう。にもかかわらず、ここに来て、ふってわいたように私の身の内側に宿った「生」の可能性への希望。これはいったいなにか。このあとに私を待ち受けているかもしれない、本当の意味での「何もなさ」。私に対して無尽蔵に無制限に与えられるかもしれない、ただの時間、お前はお前の生命ある限りにおいて、あたえられた時間を自由に使える、その権利を有する、そのことへの信じがたい喜び、この小躍りしたくなるような嬉しさとは何か。それと同時に、今なすすべなく弛緩し崩れ始めた組織の規律、関係性や価値の変容、私が感じているそれらへの屈託とは何か。少なくとも死を覚悟していた私の、今この現状において、手のひらをかえすがごとくぬけぬけと「生」を期待し、それにふさわしくもっともらしい立場にいたった私を説明しようと言葉をまさぐることの浅ましさ、さもしさ、恥知らずな調子のよさは何か。この「羞恥」の感覚こそが「日本の」感覚だろうか。いや、この「羞恥」の感覚をいっさいもたない人間への違和感、抵抗感、拒絶感こそが「日本の」感覚だろうか。この「恥ずかしさ」を自ら握りつぶして、その後を生きる感覚こそが共有し、舐めあえる「我々の傷」だろうか。その後の展開において主人公は、ほとんど夢の中を過ごすばかりだ。続く「その夏の今は」と「孤島夢」では作品全編が、主人公の眠って見る夢の記述に終始する。