人物画を描く


人物画を描く、というより、絵のテーマに人物のイメージを使っている。という感じなのだが、結果的にあらわれたものが所謂「人物画」のようであってほしいという気持ちもある。


描くときのイメージ参照元としてはかつて、エロ系写真とかそれに類する写真を用いることが多かった。あまりにも判りやすいポーズのヤツは避けるのだが、大抵からだの露出が多い女性の写真イメージを参照する。最近はそれほどでもない(あまり参照元を必要としない)のだが、もし僕の作品の内容に、そういうポルノ的雰囲気があるとしたら、かつてそういう写真を死ぬほどトレースしたり、それを元に描いたりして来た事が原因だと思う。


もちろん既成の写真を直接トレースし、そのまま作品に転用することは法的にも倫理的にも問題なので、それらの写真を脇において、それを見ながらクロッキーブックに何度もデッサンし、くり貫く事ができるような形の芯のようなものを、自分の中に覚えこませて、それから改めて、用紙に何も観ない状態で人体のイメージを描き付けていく。…そういう事を昔から、今まで何度も繰り返して来た。(誰かからみた僕という存在は、ある瞬間においては性的変質者と変わらないように見える事があるだろう)


たとえば人の顎から首筋を通って、肩までのラインを描くとする。そのとき、参照元の写真のアウトラインが持っている線を思い出して、それに沿った線が引かれる。、同時に、あらかじめ自分の中に記憶されている人体のイメージがあり、それを元に好ましいと思えるような線が、候補として、ことあるごとに呼び出されてくるので、それらとそれらをぶつけ合って、最終的にもっとも適切と思えるところに着地できるように頑張る。


写真からの描線と、既に記憶済みの領域から呼び出されてくる描線は、どちらの方が「良い描線」であるという条件とか確証はない。写真からの描線は、そのときたまたま存在していた光と影の織り成していた差異に過ぎず、絵に移行したとき既に有効ではない事は言うまでも無い。また、既に記憶済みの描線も、これまた経験というか手癖から導き出された、一番効率的でもっともらしく見えるような機能主義的かつ実用本位なものに過ぎない描線である事がほとんどで、言うまでも無いがこれに全面拠りかかって描くと、全体が絶望的につまらないものとなる。要するに、基本的にどちらも信用できない。


たとえば実際、目の前にモデルとして人がポーズして居て、それを見ながら描くという場合、そのとき目の前に展開されるイメージとか、最終的に刻まれる線描の筆跡は、前述のものと全く違うだろうし、それだと本当に人物画を描く事の努力。という事になってしまう。もちろんその実在の豊かさは素晴らしい。…のだが、あくまでも実際の、実在の人物からではなく、写真イメージとか、そういう本来信用に値しないものからしかイメージを参照していない事にこだわりたいし、そこにこだわる事自体の意味を信じたくてしつこくやっている。(くどいようだが写真イメージの薄っぺらい感じが良いとか、そういう事ではまったくない。写真イメージから遠回りして実在の人体に辿り着く試み、と言う方が近い)


まあ、こういうのは説明しても、あるとき実際に、その絵を観て(僕自身も僕以外の人も)この文章の通りとは思わないかもしれないし、僕自身、この説明文章は、さほど自分の感覚とずれていない…というか、ある一部分の説明足りえているとは…思うものの、この文章が、現実の作品とどのように関係を結んでいるか、よくわからない。なんというか、絵を描く理由を文章で描くのは、実に白々しい。前、会田誠が「ああーめんどくせーなー。かわいい女の子が描きたいなー」とか言いながら、すごい嫌になるような機械的描写を延々してる映像を観た事があるが、「可愛い女の子の絵」を描きたいというモティベーションと僕の中のモティベーションがどれほど違うのか、正直わからない。単に、なんか良い感じの絵が描きたいみたいな、なんかエロい感じで良い感じにしたい。みたいな説明でも別に足りなくは無いんだろうなとは思うが。。


しかし今日はどうも、何度読み返しても、書いた内容が足りてないような、言い過ぎなような、ずれてるような違和感が残って、登録ボタンを押すのがいつも以上に躊躇われる感じだが…。