祈る


なぜこのような事が起きなければならなかったのか?私はなぜ、このような苦しみを引き受けなければならないのだろうか?あるいはこんな目に会う事がはじめから決まっていたのだとすれば、そもそもなぜ、あの小さな可愛い私の娘は、何のためにこの世に生を受けたのだろうか?あのあまりにも短い一生に、何の意味があったのか?そして、この悲惨な一連の出来事は只、ひたすら現実として在るだけで、この奥に何か意味とか理由とかが、全く隠されていないというのは本当だろうか?そこに何か、意味を見出したい。見出さずには居られない。そこに何か意味を見出す事こそ、今もっとも必要とされている事なのではないか?誰かがそれを指し示してはくれないのか?


例えば近しい人を…例えば身内とか、まだ幼い自分の娘とか…を不意の事故などによって突然奪われてしまうような、自分にとって愛しい大切な存在が、この世から消え去ってしまうような事態を前にしたとしたときの気持ちを想像するのは恐ろしい。…きっと、言葉にも何もならない思いが取りとめも無く湧き出ては消えていくだろう。「そういう可能性は常にあるんだ、これは運が悪かったんだ、くよくよしても仕方がない。あきらめよう。」などと「理性的」に考えられる人間などいないだろう。それが客観的に構築された世界の中での、偶然の積み重なりの中で生じた出来事に過ぎず、私の子供が死んだのは純粋に確率の問題で、そこにはそれ以上、何の意味も奥行きも無い。という事が、仮に現実であったとき、それを理解し、納得するという事に、一体どれほどの意味があるのか?


今世紀の歴史的な出来事が全て、その渦中の人間と無関係に起きた出来事だとしたら、すべてが何もかも偶然という事になってしまう。「そういう可能性は常にあるんだ、これは運が悪かったんだ、くよくよしても仕方がない。あきらめよう。」というべき事の積み重なったものでしかなくなる。しかしおそらく、そのように考えることは人間には不可能なのだ。アウシュビッツで殺されたあるひとりの人物の苦悩と死には、絶対に、意味があった。ヒロシマで失われたひとつの生命は、疑いの余地無く掛け替えの無いものだった筈だ。しかしそれが失われたのだ。この事の重みを何度でも噛み締めるのだ。こういう事は今後、絶対あってはならないのだ!!…そのように本気で「確信」すること。そのためだけに歴史というものを再編成して捉え、色々と考えながら生きるくらいの気持ちで取り組んでいて良いのである。


僕は当たり前の事を云ってるだけかもしれないが、でも歴史を振り返れば振り返るほど、あるタイミングで何かの作用が起き、そして人の命が「投入」されて「消失」するのだという事の避けがたさを感じて「確信」と正反対の気持ちになってしまう。悲劇が起きて巻き込まれて、愛しい者を失い、只、泣くしかないのが、「個人」なのだとすれば…なんというか、ほとんど嫌になるし、死ぬのは怖いけどまあ、どうせ無意味だから何時死んでもいいやというような気分にさえもなる。まあ、でも悲劇を見つめ、犠牲者を想い祈るという事だろう。結局、20世紀以降の人間がやれる事なんてそれくらいかもしれない。


祈るといっても、何も殊更祈るポーズを取る必要はない。でも実際、祈り方が肝心なのだ。その作法を自分なりに探す事が大事なのだと思う。


過去の歴史や何かに触れ、知るというのは、常に死者たちの静寂を乱し、タカを括ってしまうような失敬な振る舞いでもあるのだけれど、でも同時に、彼らの苦悩や死を無駄にしないような働きかけにもなる筈なのである。まあ働きかけの力にも能力差はあるが。僕なんかは人間レベルにおいては、まあ何も考えずに適当に生きて、いつか死んでも、別に全体の中で全く問題ないくらいの出来事でしかないのだが、しかしそういう話ではなくて、考え続けるというのが大事だ、それは損得とか良し悪しとかの問題ではなくて、それが「お祈りする」という事に繋がるのだ。過去からなるべく沢山の事を知ろうとするのは、そのまま死者たちへ手を合わせる事につながるのだと思う。というか、もはやそれしか出来ないと云っても良い。


でもそれが祈る事と同一だ、と考えては勿論駄目で、それは手抜きな考えだろう。現実では、祈る事さえ困難なのだ。でも諦めずに祈る意志を持ち続ける事が大事なのだろう。