歴史について


今、自分がどのように振舞えば「一番良い」のか?そもそも「良い」とは何か?それは自分が「良い」のか?誰かが「良い」のか?自分を含めたすべて・全体が良くなる事は可能か?そのためには、どうすれば良いのか?そういう考え方自体が、果たして可能なのか?すべての一切が、幸福になるにはどうすれば良いのか?


例えば、自分は歴史をどのようにして知り、学び、辿るのか?たとえば僕が、今何か感じている実感があるとしたら、それは歴史のどこへ位置付くべきものなのか?


あるいは、一番周囲に迷惑をかけない方法はどれなのか?自分が駄目なのは取り急ぎ構わない。でも人の邪魔はなるべくしたくない。人の気持ちを害するのもいたたまれない。歴史を学び何かを知る事で、自分以外の誰も傷つけずに、侮辱や冒涜の可能性をまったく無しにする事はできないものか?


歴史を「客観的」に把握する事はできない。歴史はあくまでも主観でしか把握できない。だから、いつも必ず自分以外の誰かを冒涜する事から逃れられない。


たとえば、原子爆弾ヒロシマナガサキに投下された「意味」を、誰をも納得させ終わらせる事が可能なように「客観的」に理解したり説明したりする事はできない。…しかし、アメリカの大統領トルーマンが、「原子爆弾の開発に成功した。実戦使用に耐えうる品質のものが準備可能だ。」と報告を受けたときの気持ちを自分なりに想像する事はできる。


それがソビエトへの最高の抑止力となり牽制となり、ソビエト抜きの世界大戦終結を実現させるものであり、その後も他国に対して数馬身分のアドヴァンテージを得られるような、そういう圧倒的な技術を手中にしたのだという事を理解し、その意味を考えつつ胸の高鳴りが激しくなるトルーマンの姿を想像する事はできる。


限られたた時間の中で、反対勢力を押し切りつつ大急ぎで実施に必要な諸事に勤しむ姿も、想像できる。ポツダム会議の前日には、投下される事態を現実的なものにしておかなければ間に合わないのだから遊んでいる暇は無い。もう虫の息のあいつらが、頃合を見て講和だの降伏だのを打診してくる前に、早いところ打ち込んでやらねばならない。やるべき事を皆やってしまいたい…その焦燥感すら、想像できる。


自らの命令で、数十万人の民間人を瞬時に、一挙に死滅させるという、有志以来の、人類初の経験に手を染めるということの畏れに慄然としながらも、しかし少なくともそれがヨーロッパ諸国の、同じ白人の頭上へ落とすのではなく、あの極東の黄色人種の頭上へ落とすのだという事を自分に言い聞かせる。これから死滅に至らしめる者達の姿が、自分とまったく共通するところのない、抑揚を欠いた能面の顔と扁平な体躯の、まったく無表情なアジア人である事を思うと、良心の呵責が幾分かでも和らぐから、その微かな安堵をしっかりと掴まえて離さないようにしつつ、ともすれば恐怖にひるむ心を無理矢理鼓舞して全身を武者震いさせるときの、その気持ちも想像する事はできる。


もちろん、上記は只の物語だ。結局、そういう物語で「歴史」や「現実」をわかった気になれるのだし、怒ったり悲しんだり喜んだり奮い立ったりもする訳だ。それ自体は下らない。…しかし、本当に恐ろしいのは、結局はどこかで「わかった気」にならなければいけないのである。確定させて、公然とさせなければいけないのだたぶん。(もし、それを確定しないまま、人前に出るなら、それなら余程の「芸」が無ければ許されないだろう。僕は「芸」のある人が好きだ。芸術家が好きなのだ。いくら志が低くても態度が不味くても性格が悪くても「芸」さえビシッとしていれば良いのだ。でも僕は「芸」は無いので、それは仕方がない。)


それはともかく話を戻すが、歴史を「客観的」に把握する事はできない。なぜなら歴史とは、人間が【自分がどのように振舞えば「一番良い」のか?そもそも「良い」とは何か?それは自分が「良い」のか?誰かが「良い」のか?自分を含めたすべて・全体が良くなる事は可能か?そのためには、どうすれば良いのか?そういう考え方自体が、果たして可能なのか?すべての一切が、幸福になるにはどうすれば良いのか?】について考えるための材料だからである。


しかし世界というのは想像する事ができないものだ。新たな場所に来ても、もっととてつもなく遠く隔たった場所に、広大な大河のように、まったく別のまったく違う世界が存在しているだけの事だ。(取りとめが無い文章だなあ)