冬なら、匂いも冷たくなる。鼻がまず冷たいし、入り込んでくる空気も冷たい。晴朗きわまりない空。寒さはほとんど感じない。太陽の光が背中を暖めるので、コートを着ていられないほどだ。梅は満開に近かった。
Prime Videoで、黒沢清「ニンゲン合格」(1999年)を観る。相当久しぶりの再見だと思うが、あらためて観て、まずこの映画全編を支配している荒涼とした景色、埃っぽいような、何の華やかな香りもないような、ただ廃材と雑木や雑草とひび割れたプラスチック塵と埃と砂だけの、日向はカラカラで、日陰はジメジメと苔と泥濘にまみれているかのような、まるで情感を欠いた寒々とした景色が、かなりの割合で、足立区の景色から構成されていることに驚いた。個人的にけっこう見おぼえのある景色がいっぱい出てくる。要するに家のわりと近所を舞台にした物語なのだった(地名がはっきりと示されている話ではないので、あくまでも観た僕だけの感想です)。
どこまでも荒涼としていて、殺風景でみすぼらしくて、徹底的に美的な要素を排除しているとしか言いようのない、そんな景色を背景に、何かが生成しようとして、それは空中にけむりがただようように、静かにかたちを変えていき、やがてほどけて薄まって消えていく、その過程をじっと眺めているだけのようだ。そこに誰かの意志はなく、こうあるべきという規範もない。この映画の感想を書くのはとてもむずかしいのだが、ではこの作品の何が魅力的で、美しさを感じ、何かを言いたくさせるのか、そう考えた場合、それは演出とか脚本とか役者の芝居とか景色とか美術とかの要素に還元できない、非人間的な圧縮感というか、人間的理解を考慮しない出来事として時間がとらえられている、そんな予感を感じさせるところにあるような気がする。冒頭でぽーんと放り出された、あらかじめ十年を失ったとされる主人公が、映画の時間分それを探り、さらに新たな場へ出掛けようとするところで、映画が終わる直前に彼は彼の時間を再びうばわれる。というよりも、映画が終わるから彼はふたたび静かな世界へ戻されるかのようだ。それは人間の尺度とは違う距離をおいて観察された出来事で、そこには感情がないし、人間の社会的な規範もなく、だから通常の意味における感想も持ちえないのだ。そこには喜びでも悲しみでもない、無機的な事物のような結果があって、しかし最後のシーンで役所広司がたまたま見つける、本の間にしおりのように挟まれていた宛名無しの絵葉書。まるでそれを手に入れて残すためだけに、西島秀俊の第二の時間はあったかのようにも思える。(いや、と言うよりも、単にそれがあった。)