「ネオリベラリズムの精神分析」樫村愛子


ネオリベラリズムの精神分析―なぜ伝統や文化が求められるのか (光文社新書)


「強さ」とは「強さ」それ自体でしかない。人間が、強く生きている。というときの強さとは、単に物体が落下しているとか、車が最高速度で走っているとか、そういう事と同等の状態の説明でしかない。人間が「モノを考える」という事と「強く生きる」事とは、直接結びつかない。全然モノを考えていないが、それと関係なく「強い」という状態があるだろうし、モノを考えた結果の解決というか結論を力に変えて実践したときの喜びの、その相乗効果で「強い」という状態もあるかもしれないし、考えないからこそ「強い」という状態もあるかもしれないが、「モノを考える」という事と「強く生きる」事は、はじめからセットではない。


はっきりしている事は、「弱い」と死んでしまう、という事だとする。だから、モノは考えなくても良いが、とにかく強くなければいかんとする。何故それほど「強さ」が尊重されるのか?今の、この私の弱さをそのまま肯定するような生き方がなぜ否定されなければいけないのか?強弱と無縁に、モノを考えることだけ一生懸命じゃ駄目か?というとき、それは確かにその通りだが、でも現状がこうなっている以上、たとえば仮にその「弱さ」をそのまま肯定し続けるためにも、それ相応の「強さ」が必要とされてしまうような仕組みが既に出来ているのだから、それは仕方がないだろうと思うしかない。


で、仕方がないのでとにかく生きるために最大限の努力をしなければいけないならば、全然モノを考えないで、そんなの関係なく強いという状態を目指す、あるいはより強く生きるための武器とか道具となるようにモノを考えてその結果をなるべく実践的に使う事を目指す、などがとりあえず効率的で良いのだと思うが、しかし現実的にはそう上手くはいかなくて、大抵の場合そのどちらも無理だ。どうしても何かしら、良いバランス、というか目的とかを超えたところで、抽象的な事や観念的な事を考えてしまうからだ。そういうのが湧き出てくるのは避けられないが、それらの力全てを効率的に自分の生きる強さに集約させる事も出来ないのだ。そういう力は、どこにも行き着くことがなく流れ去るしかない。要するに理想としては、ほどほどにモノを考えつつ、良い塩梅で生きていけばよいのだが、そんな事は不可能で、仮にいつかどこかで、あらゆる結果が俯瞰できるような視点をもし得られて、その中での「自分」を確認できたとしたら、まあ「全体」にとって無駄としか思えないような思考/試行存在としての「自分」でしかないのだろう。もし「全体」があり得るのであれば、そこに向かってもっと機械のように効率的に動いているのが良いに決まっている。


というか、そういう事を考えている時点で、「何か自分を取り巻いている全体」みたいなもののイメージがあるという事なのだから、その時点でもう、ある抽象的な事や観念的な事の中にいるのだが。で、そういうぼやっとした「全体」の中で「承認・受容・評価してくれるぼやっとした何か」に向けて「優秀さ」とか「達成率」とかを問うやり方も、何となくは存在しているように感じられなくもないのだから、とりあえずそれへのなけなしの期待と意欲で生きていくのも悪くはないのだ。というか、それだって「世間的には」充分立派である。まあ大体、そんなところではないか。


前述の内容とまったく無関係な話かもしれないが、僕なんかは昔、あるとき単純にもう、わーーっと楽しく面白ければ良いのではないか?旨い食い物をひたすら食うみたいに、この世に無数に存在する面白い書物や映画やなんかを無理のない範囲でひたすら摂取し続けて、それで一生を終えられれば最高ではないか?というような気持ちになって、そう思った瞬間の何かそれまでの重荷が下りたかのような、自分が素晴らしく気楽で身軽になったような気になり、それで激しく救われたような感触になった事を微かに記憶しているのだが、実際それ以降、それまで興味がなかったような事もいろいろやったし、あまり自分と接点のなさそうな人とも付き合うようになったりもして、結構「ポジティブ」な人間になった瞬間があった。(それまでどんだけ大層な「重荷」を背負ってたんだよ。と自分に突っ込みたくなるが(笑))…まあ、そういう考えの変化によって得たものは大きかったし、失ったものも少なくなかっただろうし、間違っていたところもあるだろう。とはいえ、しかし現在の僕は、まあそこそこはもっともらしく生活を営みながらも、わーーっと爆発的に楽しく面白い生活を謳歌している(「重荷」がないゆえの特権的な身軽な楽しみを得ている)とは云い難いし、仮にそうでも、それを味わい尽くす「能力」もあまりなさそうだ。だから特に自分の中に大きな変化があったか?と云えば、別になかったかもしれないし、まあ、はっきりしてるのはいまだに中途半端に「抽象的な事や観念的な」を必要としているという事だ。


というか、…こういう「反省」が一番良くないのだろう。こういう「反省」はもっとも「強さ」をスポイルしてしまい、自信を消失させる。というかむしろ最悪の意味での「居直り」や「開き直り」や「自己満足」すら呼び寄せるかもしれない。それは避けたい。それならむしろ何も考えないで強い人の方が良いとか思ってしまう。まあ、でもそういうの自体が「スタイル」にまつわる(抽象・観念的な)しょぼい「反省」だという事も何となくわかる。そういう感じで、もう判断できなくなってきて混乱してくると、「もう要するに不快な気分だから逆にきっと良いだろう」とか「とにかく気分が良ければOKなのだ」とか「なるべく人目に付かないところにいるんだからまだマシだろう」とか、そういうレベルで判断している事も多々ある。僕なんてそんなものである。


…と、何を書いてもこういう中途半端に「自分語り」的な文章になってしまうのが僕の相当致命的な欠陥である事も感じていない訳ではないのだが、まあそれはともかく本書を読んで何か書こうと思ったらこんな文章になってしまったのであった。…しかし、この本のやけに焦っているかのような文章はちょっと面白い。

マジであることは恥ずかしいことになっているからである。超擬似化の作法では、マジになって泣くことは否定されず、一方での茶化す枠組みとの共存で受容される(209頁)

道で人とぶつかったとき、とりあえず「ごめんなさい」を言い合うことが若い人からなくなっている。アイデンティティの傷つきやすい社会から疎外されている少年などは、他者との衝突や他者からの攻撃に対し今までもヴァルネラブルであった(傷つきやすさをもっていた)。が、最近では普通の若い女の子でも、ぶつかったときいきなり「死ね」といってきたりする。(151頁)


とか、論を急いでいるのか、ものすごく直接的で性急な云い方がたくさんでてきて、全然「化粧ッ気」がない。引用した箇所はそれぞれ、たしかにその通りだと思う反面、いきなり(マジであること)とか、(死ね)という言葉の出てくる唐突さに、意表をつかれてなぜか思わず笑ってしまう。…しかしあとがきを読むと、本書を執筆途中の著者が(それ以前の執筆活動においても)病床の肉親に付き添いつつキーボードを叩いていたとか、精神的には相当過酷…と云うのか、わからないが、とにかく極めて濃密な時間の中にいたのだという事がわかる。何に驚いたかといって、その過酷さと共にこの本を生み出した、という事自体に驚かされる。環境も思考ももっとスタティックな状態で、一旦すっきりと整理するために(この本をまとめる事自体が再起の作用であるかのように)つくられたのでは?と、何となく思っていたが、しかしどちらかと云えば激しい予断を許さぬような状況下で、強い集中力と意志によってつくられた書物なのだろう。


それは、全然モノを考えないで、そんなの関係なく強いという状態とか、モノを考えていて、それとの相乗効果で強いという事とか、モノを考えている弱さに抗って強いという事とか、そういう事とまるで関係なく「ちゃんとモノを考える」と「強く生きる」を平然とした態度で共存させようとしている事なのだ。そんな事は普通できないだろう?あまり無理したら体も心も砕けるのでは?と僕なら思ってしまうが、そうではないようなのだ。その意味で、この本の著者も「アメリカと私」での江藤淳とか「ピアニストを笑え」でドイツ滞在中の山下洋輔とかと同じように「与えられた状況下でそのつど判断し、最善の選択を考え続ける」その真っ只中に居続け、緊張感や不安に耐え続ける人だと思う。(この本は、そういう強さ・それに耐え続ける力、について書かれている訳ではないが)


…なので、とりあえず何かやっていて(恒常性のようなものを夢に見つつ)やる事の只中にいるしかないのだ。というか、現にそうやって「強い生き方」を志向する人が、現にこの世界に実在している事自体が、僕にとっては救いのように感じる。