「青春の殺人者」


青春の殺人者 デラックス版 [DVD]


映画でも美術でも文学でも音楽でもなんでもいいけど、今俺は部外者だ、と感じる瞬間は多い。っていうかほとんどがそうだ。つくられたものというのは多かれ少なかれ、いろんなつながりや文脈や人脈や時代の要請や支出/収入やなんかの総体として存在するもので、でも鑑賞する人はつくり手側のそういうしがらみからは完全に切れた状態で鑑賞する訳だから、部外者である事は当然の事だし、むしろそれが鑑賞者である事の前提なのだ。そういうニュートラルな立ち居地が不安で、自分と作品との接点以上の色々な外部参照先をこれ見よがしに引っ張る事でしか自分がそれにコミットした事に自信が持てないような気分も確かに理解はできるけど本来そんな事は気にしたりする必要など全くない。というか、完全にニュートラルな態度で鑑賞できるという考えもまた幻想で、観る側は観る側のしがらみに囚われているのがこれまた通常なのであるから、それはもう賭けとしての出会いでしかないのだ。


などと、なんでそんな事をくどくど書いてるかというと、僕は本当に映画をマトモに観てない人で、長谷川和彦の作品も今まで未見だったのだが、そういう「必修」の作品を観てませんでした、という負い目が自分を部外者に思う気分を呼び込みやすいという事からくる弱音なのだが(笑)…このたび「青春の殺人者」という映画を観て、あまりにも面白いので驚いた。これはもう誰が観たって強烈だし面白い映画だろう。というか、市原悦子の芝居の異様さとか音楽の使い方とかなんかを見てると作り手の「どや、すごいやろ、一筋縄ではいかんやろ、他とは格がちがうやろ。おもろいやろ」という"どや顔"を始終向けられてる感も強い。でも父親と水谷豊が更地の地面にスナックの間取り図を書いてそのまま相撲とりはじめるシーンなんか、ほとんどその後の先鋭的日本映画の全てが凝縮されてるようにすら感じるほどだ。また、死体のとらえかたとか血糊の撒き散らし方も強烈に印象的で、これって黒沢清の「蛇の道」とかの死体の原型ではないのか?とも思われたし、毛布に包まれて海に捨てられる梱包物の異常に禍々しい感情を生起させるような感触も「蜘蛛の瞳」の梱包された人型の原型を強く思わせて、いずれにせよそういうカメラで撮影された何かの物体の荒々しい物質感と、それに避けがたく伴ってくる余韻感が充分に湛えられていて、これぞ映画原理という感じですごいと思う。


…という訳で充分に面白くて満足だったのだが、しかしこれほどの面白さを作り上げる事のできた背景は何だろう?これは一体どこから要請されて出来たどういうシロモノなのか?とも思って、色々ウェブを見て、それこそ色々な「外部情報」にあたっていたのだった。そしたら「長谷川和彦全発言」というウェブサイトがあったのでさっきまで読んでいて、ディレクターズカンパニーに纏わる話とかの箇所にさしかかって、あーなるほどやっぱちっちゃい会社って継続するには営業力だよなあ、でも営業の背中にのっかってるだけの状態になるのが一番やばいよなあ、とか何とか、普通に会社経営談として楽しんでる自分に気付き、あ!そうだそんな事どうでもいいよ、「青春の殺人者」がこのような映画として生まれる背景について何か掴んだのかよ?とも思ったけど、当然そんなの何も掴む筈も無い。。というか、結局面白さって何だろう?とも思ってしまうのだが。もっと云うと「青春の殺人者」という映画は面白すぎる点がイマイチなんじゃないかと…。「面白い」とか「すごい」というのは必ずしも映画にとって重要な事ではないのではないかと。。出会いの相手がすごい美人で人間的に素晴らしい相手じゃきゃダメ、という事ではないのと一緒だ。たしかに、別に何のしがらみも共有してないし何の利害関係もない他者同士(映画と観客)が素通りせず出会うのなら「面白い」とか「すごい」とかの理由が無い訳ないと思うけど、でもそれこそ第三者にはわからないような、あるいは簡単に説明できないような微妙な機微で出来てるものなのだろうし…