釣り竿を折りながらも、同行者の助力もあり何とか釣り上げたという三十八キロのキハダマグロが、店内の巨大クーラーボックスをはみ出すようにして鎮座していた。釣ったのは店主で、今年はコロナだの何だのロクなことがなかったけど、これで悔いのない年になった、ようやくホッとしている、とのこと、文字通りの満面の笑みというか、嬉しさや興奮がまだ冷めやらぬ口数の多さと語り口のテンションになっていて、まあたしかに釣り好きな人にとってこれほど嬉しい瞬間もないのだろうなあ、とは思った。その釣果一回で一年が悔いなく暮れまで過ごせるという感覚は、まさに第一次産業的というか漁師的感覚そのものな感じ。漁師は本来、ほとんど賭博者みたいなもので、その一瞬に全力出すだけで後は遊んでいるみたいな、労働時時間あたりの生産性的な考え方からもっとも遠い人たちだ。
その後「どう?捌いてみませんか??やってみたいでしょ?捌いてみなよ!!」と詰め寄られて、奥から汚れ除けの黒ジャンパーと胸から膝下くらいまである黒くて長い前掛けが出て来て、出刃包丁とマグロ専用刺身包丁が店の前に設置された巨大な俎板に並べられて、突如として夜中の緊急マグロ解体ショーがはじまり、ジャンパーと前掛けを着けた僕が店主のお手伝いさんみたいになってしまった。突然すぎる展開ではあるが、まあ、マグロに出刃を突き立てることができるなんて、かなり貴重な機会でもある…。(その後、ぜひともマグロを捌いてみたいとお願いされたからやらせてあげた、みたいな話にすり替わっていた…。いや、大変貴重な経験でしたので文句はありませんが…。)通勤帰りであろう帰路を道行く人々が不思議そうな顔で横目にしつつ通り過ぎていく夜の通りの真ん中で、でかいマグロを解体してる自分を含めた謎の数名…。とはいえ僕も、長い前掛けを着けたことで、単純にややテンション高まってやたら写真撮ってくれとせがんで、すでにけっこうばかな人だった。
まあ、ふだんアジだのタイだのしかおろしたことのない人間にとっては、マグロというのは巨木のようなもので、ムナビレやオビレの切断などまさに鉈かのこぎりのように出刃をうごかさないとまるで切れ目が深くならない。これはさすがに、釣りで吊り上げる魚ではないでしょ…と思うが、店主曰く、もはや一人で吊り上げることのできる魚では釣っても満足できなくなったとのこと。それにしてもマグロは捌かれた身が輝くようにうつくしくて、まずその見た目が絵になるものだと思った。高級すしやでドーンと客見せされるでかいやつ、そのままの感じ。試食をいただいたら上品な脂のすばらしい身で、直後の冷酒はほとんどなめらかな水のように感じられた。