保坂和志講演会(feat.古谷利裕) 中央大学多摩キャンパス8号館8304教室


表題の講演会を聞きに中央大学まで。ものすごく遠い。かつ大学に近づくにつれて、学園祭の賑わいの雰囲気がものすごくてクラクラする。同時に、自分がこういう雰囲気から年月を経ていかに遠くまで来てしまったのか?という事も、すごく切実に感じた。もう皆、実に楽しそうだけど同時に退屈そうで、急拵え的なステージで楽器を演奏してる子達もとかも哀しいほど滑稽に見えてしまい、やっぱ、こんな喧騒と賑わいの天国的状況に4年間もいたら人間ダメになるかもなあとも思った。


開演時間が過ぎ、舞台の右脇一列目あたりで演者のお二人が舞台に上がる直前でスタンバッっているのが見える。何を隠そう、今日僕がここに来た一番の理由としては、古谷利裕さんの姿を「肉眼」で見るため。そして話すときの表情やしぐさや声を聞きたい!というのが最大の関心であったりした。何しろ「偽日記」を昔から今に至るまでいつも読んでいる人間として、その書き手の姿と声を確認したいという気持ちはやはりあった。…なんというかとてつもなく完成度の高い曲があって、それを聴いてるとどうしても、その曲のスタジオ録音風景の映像を見たくなる気持ちに近いというか…(?)…まあ講義室の中程の席だと演台からはそこそこ遠いので、顔の表情の細部とかまでは見えないのだけれど、それでもナマ古谷氏の姿を確認するという当初の目的は充分に果たせた。(妻は今日に限ってメガネを忘れてきたため結局ほとんど何も見えなかったようだが。)


…しかし思ったより古谷氏はカッコいい人であった。もちろん僕の勝手な思い込みだが、もっとなんというか、怪しい所属不定なとりつくしまのない感じを想像していた。あれだと「保坂和志」も「古谷利裕」も知らないような若い子が見たら、有名らしい小説家とそれより若くて、まだメジャーではないが評価の高まってきたクリエイターとの対談。という感じに思うのではないだろうか?…っていうかそれで正解か。…しかしそれはともかく、古谷氏の声は低くて落ち着いたゆっくりた声であった。僕が勝手に想定していた音程よりかなり低かった。「偽日記」をこれから読むときは、僕の脳内であれらの言葉があの声で再生される事になるのか…?しかし今「偽日記」を読み返してもやはり「偽日記」は「偽日記」である。この辺の感覚がすごい面白い微妙さになったのが不思議な違和感で面白い。


話しの感じはもう当たるも当たらぬも八卦。と云わんばかりの不確かさけど瑞々しさに富んだ言葉たちのゆったりした応酬で、それでも簡単な結論に飛びつくような波が来たら、それはイヤだから避ける、という徹底は本当にすごい。「感じが良くて空気の和やかさに癒される」訳でもないし「ガンコで触るもの皆傷つけて手が付けられない」訳でもない、そういう下らない判りやすさの落としドコロにまったく無頓着だし、っていうかそういうモノの考え方とかに付き合う気がない。という事なのだと思う。


あと「真に受ける」というのは昔から云われるような、フラットな世界で絶対的な根拠も無いまま「シラけつつノる」みたいな事と大体一緒なのだろうとは思ったのだけど、そこに一瞬でも「ああでも僕は今、ノリとしてこういうモードにいる」という意識を残すのか?と云ったら、それはやはり多少は残るのだと思う。でも今は80年代とかではないから、昔みたいに、今これに全力でノレる!という自分をちゃんと下請けしてくれるような「カッコよさ」とか「ノリ」とか、そういうのは見事に絶滅している荒れ果てた郊外みたいな荒野で、本気で(それこそ死ぬ気で)「真に受ける」必要があるので、それ自体は結構過酷な事だと思う。いや、むしろ話の中では、荒川も「酔っ払ってるときは」自分を信じられない事もあるだろうね、みたいな話だったけど。ある意味それもすごい過酷だ。その時々で真に受けられるか受けられないかが、本人も含めてわからないという…まあ、だからもうこれからは、誰とも徒党とか組めないし、約束もできないし、何か決めても翌週は裏切っちゃうとか、でもまた翌月再結成したりとか、そんな感じでしか無理なのだろうか。(あ!小沢一郎が…)。


講義中、一番印象的だったのが、古谷氏がカンバセーションピースの話をしていて、保坂氏に何か質問をしようとしていて、「…で、…チャーちゃんが…」という言葉を言って、それを保坂氏が「今古谷さんの口から【チャーちゃん】という言葉が出てくるだけで泣きそうになっちゃうんだよ」と言ってたところ。


…それは、保坂氏にとって掛け替えの無い、自分の心の奥底にまで深く根を下ろしているような何事かをあらわすための言葉が、近くに居るけどまったく別の文脈から自分と関わってると思っていた人物の口から、その人物の「云い方」と「声」で、不意に唐突に口にされる事の驚きなのだろうと思う。。そのあっけなく実現してしまうせつないような奇跡の感触だ。


それは、古谷さんの事も保坂さんの事もチャーちゃんの事も知らず、それらとまったく別の時間と空間を生きている、まったく文脈を共有していないはずの僕にも、一瞬だけ同じ新鮮さで「ふっ」と贈り届けられる。それが「言葉」というものなのだろうと思う。