言葉使い


ユニフォームを着ていると、硬い生地に包まれている自分の体が、ギブスに固定されてしまったようで落ち着かないけど、ある種の気持ち良さと安心感も否めない。ごわごわした生地の内側と素肌との間にわずかなすき間があって、そこにたくわえられた体温の生暖かさが、体を動かすごとに移動して冷ややかな外気と混ざり合うのがわかる。椅子に腰掛けると、硬くすぼまった襟元が上方向に持ち上げられて顎やうなじにあたって圧迫される。脇の下や腰まわりの縫製がきつめで身をよじったりするのもやや不自由なので、自分の体が洋服のかたちにそむかないように、外殻優先の体でなるべくじっとしておく。


…クルマを運転するときも、自動車の動きや振動や音を感じながら、無抵抗にシートにもたれてそれらを背中に感じつつ身を任せながら、あぁ今この瞬間すべてがこの自動車中心に事が運べばいいよなぁと思う。僕の意志ではなくて、僕が自動車の感じさせるすべてに促されて運転を続けたい。(というか、もう既に現実はそうなっている!)


ギターを演奏するときもそうで、その波動や空気の震えや音を感じながら、あくまでもこれら楽器とその派生物中心に演奏が進めば良いと思う感じ。(人間中心なのか、楽器中心なのか?音中心なのか?)…とりあえず何かに体重を預けて寄りかかりたい感じ。


将棋の羽生が「対局では、自分が良くなるのではなく全体が良くなるように指す」と云う時、上記で僕が云った事とはまるで違う事を云っているのだと思う(たぶん)。僕は単にくたびれて濁ったような甘やかな気分のときに、上記のように思うだけなので。


でも文章をそのような気分のままに、言葉を使って書きたいと思っても無理である。そのようにやってるつもりでも、あまり思ったほどの満足感はない。文章はひたすら自己を埋没させてそれに依存する甘やかさ感じつつ自己満足するための道具にするには、元来の性質があまりによそよそしすぎるし、逆に突き放したようにはっきりと論理的に書くには、あまりにもさらさらと抵抗無く頼りなく柔らかすぎる。どういうやり方にせよ非常に扱いにくいが、これって逆に、どのようなやり方にもある程度対応できる、すぐれた汎用性があるという事なのだろう。でもそういうものは、ただ単純に「これらひとつひとつが最高」とは思い辛い。


結局、ここまで色々随分たくさん書いてきたけど、ひとつひとつは未だに、これから何を書こうとしてるのか?今書いてるこれらはどこへ向うのか?書き上げたそれが一体どういうものなのか?少し時間を置いてみたらどう感じるか?…そもそもなんだこりゃ?…そういうの全てが、まるで予想がつかないのだー!!


(まあでも実はクルマの運転も楽器の演奏も久しく体験してないので、ここで書いた事は只の妄想である。実際やったら何もかもそう上手くはいかないだろうし、すべてがまったく予想不可能だろう。)