マイルス楽団のシカゴ大虐殺(Chicago Miles Massacre)


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そもそもビ・バップにおけるコード・チェンジのスピードとは、今ここに広がっている飽き飽きした現実を、彼方へ置去りにするためのもので、アクセルを踏み込むと何もかも置去りにして疾走する速いクルマみたいなものだ。その愉悦は人を一瞬で虜にし、もっともっと細分化された音の粒立ちの中を味わいたいという、更なる欲望を喚起させずにはおかないだろう。…こうしてコード分解はどこまでも果てしなく進んでいき、やがてモード奏法が生み出され、あらゆる可能性を含有した通奏低音が不気味にループされ始めると、そのルート上で実質的に全ての音が使用可能となったのだった。


ところで、皆からずっと愛され続けてきた、可憐な歌謡曲や可愛らしい子守唄たちが、昔の大事な思い出や固有の秘密やなんかを乱暴に剥奪されて、着ていた衣服も剥ぎ取られて、そのまま荒くれジャズメンたちのオモチャにされて、鶏舎の中のブロイラーみたいに、はだかで一列に並ばされて、断片化した素材としてそれぞれ目も当てられないような陵辱を受け、引き回されてずたずたにされてしまったのだ…。犯されて汚された可哀想な歌たち。変形させられ手足をもがれたまま括り付けられた歌たちの無残な光景…でもむごたらしく変わり果てたそれらの容態の、何と悩ましく蠱惑的な事だろう!!…誰もが密かにそう思った。


残虐さにおいて一番えげつないのはドラマーのトニー・ウィリアムズである。年齢も若い。まだ子供である。だからこそ容赦がない。幼児がトンボの羽を平然と毟るような手つきでスティックを打ち下ろし、その都度、楽曲に悲鳴を上げさせる。すさまじいスピードで刻まれるハイ・ハット。。追い立てているのか、はたまた追い立てられてるのか、どこまでもどこまでも異常な精度で刻みまくる。ここまで速いと、もはやリズムの裏とか表とかいう話さえ通用しない。目まぐるしい勢いで裏表がひっくり返りまた元に戻りしているのだが、ぼやっとしてると単なる平坦なパルスに聴こえてくるほどの徹底した刻まれ方である。


マイルスだってもちろん容赦無い。血も涙もない。突拍子もない箇所からあらわれて宙吊りのままたゆたい、くだをまき、不穏さを湛えつつ、気まぐれに近寄り、たまたま傍らに居たというだけの理由で、炎がぱっと燃え移ったかのように怒り、完膚なきまでに叩きのめす。今まで何度も繰り返してきた型通りの一連の行為が済むと、また元の宙吊りに戻って徘徊する。その一挙手一同足をトニーの熱い視線が追っていて、そこにほんの少しでも暴力的な硝煙の匂いがたちこめて、微かにでも鼻腔の奥をつけば、それまで従順な飼い犬のようにお預けをしていたトニーは、呆れる程の瞬発力で反応し、吼え、激昂して、ありあまる腕力でマイルスの立ち去った直後に数百もの打撃投下を追加でお見舞いする。それは支配者に徹底して忠実な、妙に生真面目で論理的で機械的行動を好む「鬼」の姿である。


こいつらのタチの悪さとは、たとえば自分のやる事、やれる事自体に、いい加減もう飽きていて、瀕死の被害者の姿を眺める事にもそこそこ飽食していて、うんざりしていて、それでもまだ満腹感には辿りついてなくて、どす黒い退屈さをと不満足を持て余しつつ、しかし今のこの状況から決して足を洗う気はなく、だらしくなくいつまでも居座り続けるようなかなり悪質なものだ。このような演奏を、彼らはもう数年にわたって続けているのだ。たぶん続けているうちに、本当にうんざりして、飽き飽きしていて、でも白痴に大量の筋肉増強剤を注射したみたいに、演奏技術だけはとめどもなく高まってしまっており、アンサンブルは類を見ないような独自の粘りすら見せ始めており、もう曲のメロディもリズムをハーモニーもどこまでも自在に操れるのだけど、それを自嘲するかのように無意味に弄ぶだけで、いたずらに楽曲の枠組みを壊れかけの陋屋みたいなものに見立てて皆でガンガン殴る蹴るして打ち倒そうとしているだけの、殆ど不毛な行為を延々継続させているだけにも見えるのである。


しかし、おそらくはこれこそが「モダン」にほかならない。これが本質的なモダン・ジャズなのだ。ここで聴ける演奏をフリージャズに近いと感じる人も居るだろう。僕も同感だがしかし、ここでのフリーっぽさとフリージャズとは、とんでもなく深い断絶がある。そもそも演奏がフリーに近づくとはどういう事なのか?を、自らの内側にある起源に遡って、愚直に確認しつつ再び戻ってくるような、そういう徹底性がなければ出てこないような、かなりヤバイ瞬間がここにはあるのだ。それを抜きにして、はじめからフリーが成立できると思って演奏されるフリージャズとは、質感においてまるで違ってしまうのだ。おそらくそれは、バンドが機能してきた長い年月と、夥しい回数の反復による積み重なり、そして常に限られている手段。そこから生まれる倦怠や退屈の只中で、まだ微かに仄見える期待があって、そこに全身全霊を賭けるメンバー達の神経の高ぶり…。それらの要素だけが実現可能な独自の説得力だろう。