YOKO KATO展「藪漕ぎ」(2/4〜2/14)


表題の展覧会を観にギャラリー福山へ。恐ろしく寒い曇りの日で、鼻先や耳朶が感覚を失くすほどの強い冷気に包まれていて、コートの前を顎の下までしっかりと合わせないと内側に残る温もりがあっという間に逃げていきそうだ。カラダをこわばらせたまま、東銀座から首都高沿いの人通りも車も少ない静かな道を新富町の方まで歩くと、やがてギャラリーの入り口を発見する。階段を上がりドアを開けると、決して広くはないが作品に囲まれた空間は静かなテンションが張っており、豊饒な空気の感触が醸しだされていた。


キャンバス地を残しつつ、擦過傷のように掠れた素早い筆致を展開したパターンと、しっかり油彩の層が重なって、溶き油の光沢を伴った堅牢なマチエルをもつパターンがあり、特に油彩の粘り強い質が何度も重ねられ引き伸ばされ、引っ掛かれてこそぎ落とされる有様の魅力は強くて豊かで、その密度自体を飽かず眺めていられる。画面の隅々にまで、目が行き届き、手が入れられ、また吟味され、また別の箇所が検討され…どの展示作品もそれらの行為が納得いくまで行われた末、やがてもう良いと判断できる地点が訪れると、そのまますぱっと切り取った切断面であるかのように、生々しい新鮮さを湛えたまま展示されていて、そういう手順で正当に達成された絵画ならではの魅力だと思った。かつ最初にも書いたけど、そこを訪れて最初にぱっと感じられるような画廊空間の雰囲気も良く、おそらく空間と、作品点数や作品サイズとの関係が程良いのだと思われる。


面識もなく過去の仕事も知らない一作家の展示をふいに観るというのは、普段頻繁に画廊めぐり等をしている人にとってはさほど珍しい事ではないだろうし、そのような唐突な出会いで何事かが起こらないのであれば、作品を展示する事の意味なんてないのだから、ふいに観る事自体が大いに推奨されるべき事であるのは云うまでも無いが、しかしそれが推奨されるべきであるという事と、実際に自分が、唐突にもその現場で作品の目撃者になるときの緊張というのは基本的に無関係で、その場その場は常に新たな初対面の緊張感をもって場と対峙するのであるから、最初から何も共有していない事の緊張感を意識するのはそれなりにしんどい事でもある。(僕が考えすぎなのだが。本当はおそらくもっと気楽なものです)しかしおそらくその緊張感が貴重なのだという事もよくわかっているのだ。というか、そのような地点から見ないと見えない事はとても多いのだ。


…などと書くとエラク緊迫した場で直立不動で硬直したまま鑑賞して、斜め45度のお辞儀をして帰ってきた、みたいな印象になってしまうが、実際はまったくそんな事はなく、作家の方はご不在だったが、画廊主の方からお茶をご馳走になって、あ、すいません、と小さな声でおどおどお礼を言ってロクに挨拶も自己紹介もせず、へなへな腰掛けてからも落ち着き無く、いつまでもズルズルと四方の壁を見回して、、また立ち上がって幾つかの作品を間近で観て…という極めて無礼で怪しげに勝手に自由に鑑賞させてもらっていただけなのだが、そんな体でもやはり僕は、僕なりに前述のような事を考えていた。なぜなら僕はこの作家の方についてそれまで知らなかったし、作品も今回初めて拝見したのだが、それでもやはりいきなり作品を拝見して、そこからある厚みというか、仕事の奥行きみたいなものは感じられるのだと思って、それを感じるというのは、無知から来る誤解の危険を常に孕みながらも、やはり最初から何も共有していない事の緊張感と新鮮さがあるからだろうと思ったからである。というか、作品から受けるその厚みというか奥行きのようなものに、やや気圧された。


絵というのは元来、描かれたものと、見えるものは、同一の筈である。でもなぜか、それがある意識(意志)を維持し続けて作られ続けているものである場合、描かれたものと、それを支えている時間のような何かが含有されているように感じられるのだ。極端な話、何が描かれているかも、どのように描かれているかも、大した問題ではないのではないか?一番大事なのは、描く事を支えてきた時間が仄見える事ではないのだろうか?と想像する。それはつまり制作を続けていく事でしか生まれないような奥行きであろう。そういうのはやはり、現実にあるのだろう。初心者にも判りますよ、最初から何も共有していなくても、自分の思いのままに見ればいいですよ、という話とも違うと思う。…いやここは矛盾するところで、描かれたものとそこに含まれている何かを感じるというのは、おそらく「簡単」な事だし「初心者」でも判っちゃう事で、むしろ余計な事を色々考えてる人間の方が鈍いのかもしれないけど、そこでの「簡単」とか「初心者」の意味自体が、かなり違う気もする。その意味では僕ももっと、常にその都度、新たに初心者として現れ直す意識が必要なのかもしれない。