ジャコメッティ展


昼過ぎに乃木坂へ。2005年に葉山でやったジャコメッティ展には行ってないので、この作家の大規模な展覧会を観るのは、今日がはじめてである。とはいえジャコメッティ、作品単体なら、おそらく何回かは、観たこと無いわけでもなかろう、あまりおぼえてないけど、などと思いながら、実はさほど期待もせずに会場に着いて、入口から入ってすぐの部屋に、一点だけ設置された女性立像が目に入った途端、予想外の強さにおどろく。しばらく作品の前からはなれられない状態。つ、つよい…と呟くよりほかない。ものすごいプレゼンスである。この一撃で、自分はおそらくジャコメッティの作品を、生まれてはじめて今観ているのだと悟る。


シュルレアリズム時代や、オセアニアや南アからの影響下にある彫刻時代を経て、一点、異様に鼻の長い仮面のような彫刻作品が出現するが、これがはっきりと、このあと来るべき作品群の到来を予言しているかのような造形。紐で吊り下げられた、やや扁平な頭蓋骨のような頭部。その鼻が、頭部自体の数倍もの長さで、棒状に、正面から観る者に対して先端を突き立てるかのように伸びている。今までとは明らかに違うフォルムであり、空間へのアプローチだ。全然洗練されてないけれども、この成果が作家にもたらした影響は大きいのではないかと、勝手に想像したり。


しかしその後、作品は一挙に、極端に小さくなる。数センチとか、そのくらいの人物像になる。あまりにも小さいので、これはもはや、粘土で塑像する小ささとしては限界に近いのではと思われるくらいである。というか、その制御し難さが肝心なようにも思われる。正面とか側面とか、そういう単位もほぼ消えかかる。小さいものを観るというのは、それはそれで一つの限定された経験になってしまう。ここまで突き詰めて、苦しい場所を通り抜けたのかと思う。


そして最初の展示室にもあったのと同時代の、女性立像群があらわれはじめる。やはり凄い。息を呑む。作品の前を立ち去るのがなかなか難しい。それらの立像は、頭部があり、眼窩、鼻梁、口元、顎をもつ。首から肩にかけてのフォルム、胸部、乳房のふくらみをもつ。両腕と腰のくびれとが作る隙間をもつ。骨盤の土台をもち、太腿から膝に掛けてすぼまるような逆円錐型の流れをもち、膝から足首までの支柱のような下降線を経て、足の甲へと広がって力を拡散させていく。それらすべては、見たままに存在するのだが、それらすべてが、異様に刈り込まれてぎゅっと押し込められた極狭の空間内に、ぎっしりと並べられて詰まっていると言ったら良いのか、すべての配列や構造を一旦ばらばらにされて、もう一度虚構として、しかし圧倒的なリアルさで再配置させられていると言ったら良いのか、なにしろ、そういう得体の知れぬ、謎なあらわれ方でいつまでも静かにそこにあって、ひたすら観ていることしかできない。確実に、空間内の虚構というか、美術造形的な領域を、しっかりと掴んで、やりたいようにやり切ってしまっている。単に上手くそこに成立しているというだけのたいへん素朴というか根源的なよろこびがそこにはある。こういうものに、あまり理屈を重ねてもしょうがなくて、ただ時間の許す限り観ているだけだ。


矢内原伊作関連もジャコメッティによる矢内原像は一点もなくて拍子抜けだったし、タブローも展示数が物足りなかったが、マーグ夫人の肖像は、悪くないというか、ああ、これぞジャコメッティ、という感じのタブロー。すごくカッコいいけど、一昔前の感じ、昭和の画家、という感じ。何十年か前の日本の具象画的、というか皆がジャコメッティの手のひらの上にいたようなものか。素描も、僕は鉛筆でひたすらゴリゴリやってるような素描は基本的にいくら観てても飽きないので、好きだからいいのだけれども、しかし、なんか妙に文学的というか、何がしかの意味合いの付与された感じというか、一昔前の哲学(あんまりよく知らないが)的な感じというのか、如何にも文学者とかと仲良くなってしまいそうな感じというか、それは受容側の浅さの話でジャコメッティの作品の問題ではないのかもしれないが、しかしかすかながらそういう臭みは感じなくはない。ジャコメッティは、個人的には高校生のときに画集をかなり見ていて、その思い出というかイメージの記憶が未だに濃くあるので、だから古いと思ってるのは自分の頭の中に残ってるイメージが古いということなのかもしれない。


風景は、途中何点か、最後にリトグラフでパリ景色の連作があって、どれもかなり良かったというか、そうかジャコメッティも、場合によっては、こんな普通に柔らかい空間のとらえかたをすることもあるのか。まあ、そりゃそうかもしれない、と。しかし、思ってた以上に「パリの画家」だったのだな。20世紀は遠くなりにけり。カフェで新聞を読んでるようないくつかの写真など見たりしながら、そう思った。