人間と犬

保坂和志の「小説的思考塾 vol.4」の配信を観る。それに先立って配布された資料の3「人間と犬は除いて」アガンベンによるドゥルーズ追悼文がとても印象的だった。以下に引用。

「人間と犬は除いて」アガンベンによるドゥルーズ追悼文

彼(ドゥルーズ)はこの概念を説明するため、観想に関するプラトンの理論について述べることからはじめている。「どんな存在も観想する」と、彼は、記憶だけに頼って自由に引用しながら言ったのである。どんな存在も観想なのです。そうなのです、動物でさえ、植物でさえ観想なのです(人間と犬は除いて、と彼は付け加えた。彼にしてみれば、人間と犬は、喜びというものを知らない陰鬱な動物なのだ)。私[ドゥルーズのこと] が冗談を言っているのだ、これは冗談だと、みなさんは言うでしょう。そうです。でも、冗談でさえ観想なのです……。
万物が観想するわけです。花や牛は、哲学者以上に観想します。しかも、観想しながら、自分で自分を充たし、自分を享受するのです。花や牛は何を観想するのでしょうか。自分自身の要件を観想するのです。石はケイ素や石灰質を観想し、牛は炭素、窒素そして塩を観想するわけです。
これこそ、自己享楽というものです。自己享楽というのは、自分であるということの小さな快楽、つまり、エゴイズムのことではありません。喜びを生産するような、さらには、そうした喜びがこれからも持続するだろうという信頼感を生産するようなあの元素間の収縮のことであり、固有な要件についてのあの観想なのです。そういう喜びがなければ、人は生きていられないでしょう。というのも、心臓が止まってしまうでしょうから。われわれは、小さな喜びなのです。自分に満足するということは、忌まわしいものに抵抗する力を自分自身のなかに見い出すことです。

 そのような「観想」から「人間と犬」だけが除かれている。人間と犬は「陰鬱」ないきもの。精神分析的なモデルによって仮フィードバックを得ることしかできない、欠落をかかえたいきものが「人間と犬」だというのだとしたら、その陰鬱さと悲しさは、わかる気がする。

ところで千葉雅也「動き過ぎてはいけない」(57頁) によれば、この文章で「人間と犬は除いて」と付け加えたのはアガンベンで、実際のドゥルーズはまた別の言い方をしたらしいが。

それにしても「自分自身の要件を観想する」とは。…物質としての自分をよろこぶ、ほとんど、死に行くこと自体へのよろこびにも置き替えられてしまえそうな、危険なよろこびにも思われる。

保坂和志の知り合いで研究者から医者へ転身した人物がいて、その人が「呼吸」のメカニズムはまだよくわかってない、と言っていたらしい。それに「症状」というものも、まだ正しく定義されてないのだと。