それは誠

文學界2023年6月号の、乗代雄介「それは誠」を読んだ。面白かった。今まで読んだ乗代雄介作品のなかでもっとも好きかもしれない。

修学旅行二日目の自由行動班として編成された高校生男女のグループ、主人公佐田誠を含むその男子生徒四人による自由行動の一日を中心に描いた話で、でもそれはこの小説そのものが、主人公によって書かれたものであること、主人公の体験が事後、こうして自身の手によって書かれ留められたものということが、冒頭から明確に謳われている。

だからこれは、仲間同士の特別な体験のよろこびをそのまま表現したものではなくて、もとよりそんなことは不可能で、これはあくまでも事後的に、その記憶をもとに言葉によって編まれたものであること、書かれたものそれ自体は、主人公ひとりで孤独に営まれたものであることまで、文中からうかがわれるように記述がなされている。

そんないつもの「孤独な書き手の饒舌さ」みたいな感触と、たまたま班になった高校生同士の関係がじょじょに変化していく感じの組み合わせ具合がいい感じで、去年読んだ「パパイヤ・ママイヤ」がそうだったように、今回も青二才的饒舌体な語り方が、高校生くらいの人物像によく似合ってる。

この話の書き手である主人公にとって、体験の共有とか歓びの分かち合いとか、そういうのは全く信じられるものではないのだろう。もとより読むことは、書くことの遅延としてしか体験できないものだ。私が書いたことを私が読むとき、そこに私の同一性を信じることはできないし、まして他人ならなおさら無理な相談だ。しかしだからと言って、体験と共有を完全にあきらめているわけではない。それはむしろ、時と場所を隔てて、幻のように起こりうる。それを信じる限りにおいて、この世界は未だ素晴らしく、私もまだ、この世界とのつながりを信じることができるだろう。

高校生のくせに、いや、高校生ならではの思い詰め方で、斜に構えた情熱をもって、主人公はひたすらキーボードを打ち続ける。キーインの無機質な抵抗感が、指に伝えてくるものだけが信頼に足る。

理解しあえたとか、分かり合えたとか、そういうことではない。そういう結合は、永久にありえない。この物語が、主人公によって事後的に書かれたものであるように、他人同士は同じものを、リアルタイムでは決して体験共有しないのだが、でもだからこそ主人公の私は、その未知の可能性へ賭けていたいし、その試みだけを喜びとする。書くとはそういうことだ。

いつか何かを、誰かをわかりたいという思いが、ある時どこかで、他人の頭のなかに浮かび、それが誰かのモチベーションになること。この私が直接、働きかけたわけではないが、しかし私の行為が、別の時とシチュエーションにおいて、誰かに届き、何かを動かして、そこに何らかの影響をあたえて、心の内側にさざ波を立てた。はるか昔に揺るがされた鎖の一端が、たった今揺れた。そのことを私は、また別の時とシチュエーションにおいて、たしかに知るだろう。

だから「僕は自分の知らないところで、何かが起こっているのだけがうれしい」。

主人公が前半で喋っていた「溺れる人」問題。溺れる人がいて、その彼が溺れたら自分も一緒に溺れようと思う人がいて、溺れる者を救おうとする人もいる。救おうとする者が一番立派で、彼と一緒に溺れようと考えてる人は、救おうとする人を尊敬し、一緒に溺れることしか出来ないだろう自分を、恥ずかしく思うかもしれない。

しかし溺れる人が溺れたとき、その彼が溺れたら自分も一緒に溺れようと思ってた人は、もしそう思っていたとしても、実際は溺れる彼を見ているしかない。溺れる人は、一緒に溺れようと思ってた人ではなく、救おうとする人に救われるだろう。それが現実だ。しかし、だとしたら溺れる彼を見ているだけだった人の、もし彼が溺れたら自分も一緒に溺れようと思っていた考えの、その内実はどこにあるのか。そもそも、その思いは、何を元手に証明しうるのか。

彼が溺れたら自分も一緒に溺れようと思っている人は、もしかして、自分がそう思っていることの自覚を、自分でも持ちえないのじゃないか。自分はこう思っていたと、彼が自身の思いを自覚することがあるとしたら、それはついに自分も彼と一緒に溺れている、その瞬間こそではないか。でもそれを見ている人々は、きっと彼が一緒に溺れようとしていたとは考えずに、彼を助けようとしたと思うだろう。彼の思いは、決して行為にはならない。行為になった瞬間、彼は、彼を救うか救うことに失敗するかのどちらかに選り分けられる。

だから、私や誰かが、あるとき何を考えていたのかは、決してわかられることがない。でも、何をしたかはわかる。だから世の中は、結果が全てだとも言われるのだろう。しかし行為に至らない何かは、ほんとうに無価値だろうか。それは決して存在を認められない何かとしてしか、考察できなものだろうか。

この「溺れる人」のエピソードが、主人公と反目していたはずの蔵並君から蒸し返されるとき、主人公ら高校生四人の関係が一挙に立体化し、それまで予想もしなかった奥行きが与えられる。彼らこそが、溺れる者であり、一緒に溺れようとする者であり、救う者であり、しかしそのどの役割も与えられないまま、その思いの非・定着性のなかに、互いの関係を探り合う者たちであると、そのイメージが一挙に差し込む。この瞬間は、感動的である。

彼らは最初から最後まで、わかり合うことが無い。にもかかわらず、何かに突き動かされるように、この無目的な行動の遂行を成し遂げようとする。関係においては、他者の考えも他者を思う自分の考えも、わかりようがないのだということが言われているのに、むしろ、そのわからなさのためにこそ、彼らは今この時と場を、一時的にせよ共有(共犯関係を組織)するのだ。