静かな世界


まことに戦争と恋愛というのはよく似ていて、それは正義でもあり悪事でもあるような、譲渡でもあり窃盗でもあるような、善意でもあり悪意でもあるような、…しかし、いずれにせよ避けがたく自己防衛本能に基づいた生存競争で、でも競争であるからにはルールがあってそれを遵守するためのフェアネスが一応信じられている。戦争と恋愛というのはその上で行われるコミュニケーションの極北の事だ。


恋愛あるいは戦争は往々にして、当初の目的であった対象を、得ると同時に滅ぼしてしまう。全ての賭け金を突っ込んだのに、ルーレットの赤と黒が同時に現前するような状態が起こって、そしてやはり、そのような場所では、人はやはり死ななければならないのだろうか?


恋愛あるいは戦争にかわるものとしての、ストーキングやテロルを思う。ストーキングやテロルは愚劣だ。それは誰でもわかる。でもそれならどうすればよいのか?を、本気でそれが問題だと思うならば真摯に考える必要があるのだ。ストーキングやテロルは従来のルールを守る意志をもたぬ者共たちによる、そのルール自体への反逆という意味での、新しい形式のコミュニケーションと捉える事もできるのかもしれない。それは最悪の振る舞いではあるのだが、これからを生きる新しい人々が、より良い新しい方向をまさぐるときの、おそらくほとんどの人間が想像できてしまうもっとも安易な方法であるところが、最悪と断じて突き放してしまう最後の一手に思わずかすかな躊躇を生じさせる。


ストーキングやテロルを批判しつつ、しかし新しい方法を考えなければいけないというとき、間違ってももう、従来通りの戦争や恋愛にならないように配慮がなされたそのとき、場合によっては採用される下部構造がストーキングやテロルで使われたものとほぼ同構造のものである可能性もありだろうと思う。そのメカニズムを、悪臭に耐えながら解析しつつ、使い方によってはどちらにでも転ぶような危険物の新たな可能性の実験として再生成してみること。そしてあたらしい手法を少しでもより良い方向に建設する事こそが重要なのだ。しかし、それはたとえばどのようなモデルなのだろうか?ストーキングやテロルの血液までをも受け継いだまったく新しい車体のフォルムとは、どのような様相を呈しているのか?


…それはたとえば「対象」を思い、思いつめて焦がれて焦がれて、ものすごい爆音と排気であたりの景色を掠めさせてしまいながらも、そこに全存在を賭けて駆けてきてそのあまり、ものすごい勢いで全力疾走でうわーー!!とか叫びながら耳をつんざくスキール音をたてて直進して、目標も何もすべて突き破ったまま遠くにまで走り去ってしまう感じだろうか?あるいはずっと愛し続けてきた最愛の相手を前にして、ああ今ここにあの人が、現実にいるんだと思って歓喜の涙が溢れてくるのを抑えられずに、もう今までのありったけの気持ちをすべて込めて、その場でちゃぶ台に家族全員が揃って夕食の支度ができて父さんはもう先に食べ始めちゃってる感じだろうか?あるいは独裁政権下の大統領がクーデター勃発により捕えられて傀儡政権の下で監禁されてるうちに日頃の成果がようやくあらわれてきたので内申書と相談しつつ試しに1ランク上の私立も受けてみようかとお母さんと一緒に迷ってるような感じだろうか?…いや多分、現実はもっとすごいはず。こんなもんじゃないはず。


やっぱり、これからの時代は、天才も、偉人も、教祖も、極悪人も、もう二度とあらわれないような感じになるのだろうか。そういう時代はとっくに終わっていて、何十年かたって、僕もこの世に生を受けたという事か。軽薄な馬鹿騒ぎの積層を突き抜けた後の上空でインターネットが垣間見せているのは、プロトコルのハートビートだけが他者らしき生命体反応の気配であるかような、これから続く時代が醸し出す空気の予兆なのか?そしてそのような静かな世界は、果たして僕の妄想なのかあるいは既に現実なのか…いずれにせよ、その時空を生き延びるために何が必要なのか、もしそれが現実なら、良き生を価値付けてくれる何の手がかりもないのだろうか?そんな大それた問いについて考えても馬鹿馬鹿しいし、とりあえず今は、ただひたすら過去の、歴史があって人々がいて恋愛や戦争があったという記録を何度も反芻して、可能な範囲でなるべくそれらの残滓に思いをはせ、細部に細かくあたるような生活を続ける必要を感じる。