「コロー」国立西洋美術館


19世紀以降のフランス美術の奥深さというか、層の厚みを思い知らされる感じである。こういう画家が、1800年代を通して絵画のイノベイターとして君臨していた。後からやってくる印象派の人々は皆、このコローの作品群を強い緊張感をもって見つめたのである。


今の視点で見るとコローは大変オーソドックスに見えてしまうのだが、しかしここではあからさまに「絵画をつくりあげる」方法の露呈が行われているといえよう。それまで隠されていた粉飾を暴き、貧相で生々しい骨組みとか屋台骨を剥き出しにして、しかしだからこそはっきりと、何が絵画をささえているのか?を白日の下にさらす。殊に1820〜30年代の初期風景画などに、その意志が明確に感じられる。実際、これほど過激な画家だと思ってなかったのでちょっと予想外であった。…しかしほんとうに良い。絵っていうのはこういうものですよ、ほんとうにいいもんだなあーと思わされる。


50年代以降はある種の様式が確立しはじめ、素晴らしい達成度で圧倒させると同時に若干の退屈さもまとい始めるのだが、しかしそれでも如何にもコローですね、という感じの筆使いとかこれ見よがしのキメの差し色とかはカッコ良い。何よりも、うわーこの黒を俺もこんな風に大胆にどばーーっと使ってみたいなあとか、なんて上品な黄緑色の広がりだろうとか、やたらと刺激させられるので楽しい。あとはフランスという環境の大気。重々しく木々の緑にまとわりつく、湿度をたっぷりと含んだ空気の層。そのしっとりとした感じ。近代というとき、まずその誰にでも等しく感じられるそういう何の変哲もない当たり前の感触が、コローによってすくい取られたのだ。そのときの空気の感触が気配のように漂うかのような。新しく発見され、提示された「リアリティ」だ。


コロー以外の画家の作品もいくつか展示されているが、ことに素晴らしいと思われて記憶から消えないのがシニャックの風景(シニャックがこれほど良いと初めて感じた。見ている景色とか空間とか空気というものと、自分が画面で推し進めようとしているシステマティックな方法が、とても密で細やかな緊張感をともないつつ拮抗しているのが感じられて、そうか印象派的な点描とは元々、これほどまでに、対象に食い込める方法として発見されたんだと思った。)あとモンドリアンのまだ抽象化される前の荒々しい風景(フリーキーにブローしまくるフリーフォーム・ソロという感じ。。これは言葉をなくすほど素晴らしい作品だった。モンドリアンすごい。こいつは本気だ。)あとゴーギャンの風景(ゴーギャンはいつ見てもすごい。はじめて見るような地味な作品とかも一々すべてすごい。)など。


コローの人物画は、これもまた素晴らしいものだが、これまた今の視点では極めてその良さというか革新性が見えにくく、理解しがたい点もあるように思われる。というか僕自身が微妙に不安に感じる。「青い服の婦人」など、良いに決まっているというか、誰が見たって良いと思うのだろうが、しかしこういう感じって、これこそ今、これぞまさに誰も見向きもしないような終わった「良さ」かもしれないなあとも思った。