中村一美"存在の鳥 II" 南天子画廊


モデリングペーストという材質の、あの粘度とか色とか質感とかをある程度知った上で、それを大量にヘラにとって、キャンバスにどびゃーっとなすりつけたときの、その画面に残る「なすりつけられた感」をまとったイメージというのは、その行為を一度でもよいからやった事があればすぐわかるのだが、それはもう、その経験がある人であれば、本来、もう絶対、ある程度予想のつく事なのである。


それをやったとき、その結果キャンバスに付着するモデペの「かたち」がどうなるか?それは勿論わからない。でもどのようなかたちであれ、そのかたちから受ける「印象」の方は、ほぼ揺ぎ無いものとして予想できる。もう、どう考えても絶対、そうなるだろうというくらいの感じで、キャンバスにモデペがなすり付けられる。やればやるほど、そう感じる。


まあ、材質の予想しやすさ。というか、いまさら驚くに値しない馴染みやすさ。というのは、これは当たり前の事で、絵の具でもメディウムでも鉛筆でもコンテでもそうだし、何でもそうである。描かれた絵というもの自体から受ける感じで、今まで観たこともない、と思うような「見た目」のイメージはたぶんもはやこの世に存在しない。誰がやっても、ある程度そうなる、というのを前提にして行われる。しかし、それを毎回性懲りも無く、常に新たに新鮮なものと捉えて、とてつもなく豊穣で複雑なイメージの契機とこころで感じ続けて、こころの方を総入れ替えするかの如く、毎回新たにうまれてはじめての新鮮さをもって現実に物質化させるのが、画家の仕事なのだろう。


中村一美氏の作品を観ていて、その「下地」にあって制作の動機を支えているものに、そういう画材の物質感があるとしたら、それがいわゆる、安定した確定的な何かとして、それをある種の心の支えにして制作しているようにも、あるいはものすごい不確定で、それゆえに常に新鮮なスリルを伴う感覚で制作しているようにも見えた。さらにそこから、作品が与えてくれるイメージの複雑さはすごいのだけれど、しかし観ている事の最終的な回答というか、物語の終結が結局そこの物質感、というか、「どびゃーっ」感に戻ってきてしまう感じにも思えるのは見方の悪さなのかどうか。。。しかし、逆にそういうなすり付けられた感触、というか、あるボリュームをもった絵の具とかメディウムの塊が激しいスピードで画面上を走っているという事態を、なんとか新鮮なものにする、というかどこまでも活気付けたい、という事の、もう行き着くところまで行き着いた地点からあらためての、また性懲りも無いやぶれかぶれな挑戦、のようにも感じられる。いずれにせよ、調和というよりは混沌がより多めに全体を支配していて、しかしその感じは僕はすごく惹かれるものを感じて、やはり作品としての複雑な豊さは大変なもので、いつもの事ながらなかなか絵の前から立ち去りがたかった。


画面内のところどころ、葉っぱのような、曲線のリズムカルに連続して刻まれる筆致の線が、おそろしくキレイで、そのあたりから沸き起こっている感触が素晴らしかった。あと色彩も、ゴツゴツと色彩だけ積み重ねていって構造めいたものを凄まじいスピードで打ち立ててしまう感じとか、その中間地帯に漂うようにメタリックにラメってぎらついたような趣味の良し悪しとかも超えた混沌の感じは大体以前からと同様の印象だが、何か今回は改めて強く複雑さや豊かさを感じた。