傘がない


たちのぼる生煮えの湯気のような独特の香りが鼻腔の奥を突き、やがて意外なほど生ぬるい水滴が軽くノックするようにぽつぽつとアタマを叩きはじめ、水分が額を伝って顔面にひとすじふたすじと流れ落ちる。傘もなく、なすすべもなく、気持ちを切り替えて濡れたまま歩くことをきめる。水の飛沫は頬やまぶたにも着弾しはじめてそのまま留まり、顔全体がかすかにこそばゆくなる。やがてサーッっという本降りの音響があたりをつつみ始める。そのときにはもう胸元も膝上も裾も湿って黒く染まり水を含んで重みを増して下方向へ垂れ下がりはじめている。前髪を手でかき上げると、中心から髪の先へ水分が移動したのを感じる。手の甲にも容赦なく雨が被弾しているのを感じる。鼻梁や口元の雨が汗と交じり合い、かすかに口角から口内に侵入してきて親しいような頼りないような味わいが口の中に広がる。(F1中継、ベルギーはスパ・フランコルシャンサーキットも雨。スタブロからブランシモン、そしてバスストップ・シケインへと至るあの下り坂。森林の深みと、湿度をたっぷり含んだ空気の層と、重々しくのしかかってくるかのような黒い雨雲をたたえた空。マシンを降りてヘルメットをとったキミ・ライコネンの口元を濡らしたであろう雨の生ぬるさも、僕が感じたそれと似ていただろうか。)