八月五日の写真。この日はアンゲロプロスの「永遠と一日」を観にいった日のようだ。こんな、溢れるような光の横溢する時間を映画館の中にいたなんて、ちょっと信じられない。

空の青もここまで来ると、ほとんど重量を感じるような、強い重力となんらかの関係を思わずにはいられないような、色というものが力学の表れの一種であるかのように錯覚してしまいそうになる。

色と色の狭間にいることを強く感じて、そのことだけで写真を撮ろうとしている。今この状況下を記録しておくための写真で、景気のことよりもこれらに包まれた自分の状態の方に強い関心がある。

雲の重みが、建物となんら変わらないのに、空中に浮き上がったまま静止していることの不自然さ、理不尽さ。重みとしか云いようのないあり方で浮かんでいる。

さわると熱いのか、そうでもないのか、そもそもさわるということが、どこまで許されていたのか、見た目だけでは判断のつかない、ある意味での視力を失ったままの状態で、触覚的なまさぐりを試すための、試みとしての撮影。

すごい空であった。青すぎるし、雲は白すぎた。ふたつが鋭く、痛いほどつよくぶつかっていた。建物の壁は、炎の柱のように裂けていたし、影はもうひとつの黒い建物が建っているようだった。そのなかを歩いている自分は無理をしている訳でもなく、こうして歩いて行くことは意外と可能なのだと思った。木々の下にいると、光と影がめまぐるしく切り替わり、水のなかにいるのに近い。(2012/8/6)

Jimi Hendrix(James Marshall Hendrix、1942年11月27日 - 1970年9月18日)のCatfish Bluesという曲。1967年11月10日オランダの演奏、僕がはじめて聴いたジミヘンの音源がそれだ。The Wild Man of Pop Playsというプライベート盤に収録されている。後にBluesというアルバムに正式に収録された。

Jimi HendrixのCatfish Bluesという曲。元はマディ・ウォーターズの曲である。この曲をよくもまあ、ここまでの事にしたものだ。ここにはもはやほとんど、何もない。やりつくしてもう、何もなくなってしまった。空の雲だけしかない。

朝、電源ボタンを入れるのが仕事だ。それ以上の仕事をした日は機嫌が悪い。マシンの稼動音に耳をすませながら、始終いらいらしている。帰りは生牡蠣を五つとグラスワインを二杯飲んで気分を調整する。冬の空気を肺いっぱいに取り込む。わきの下や足元から、冷気が渦を巻いて後方に流れ去る。

言葉はなにしろ、なによりもまず言葉そのものの問題を扱うようにできていて、本来問題とすべき事象が最初から問題を言葉にしたものに置き換わってしまわざるを得ない。絵画とは、感覚された、ある何か、としか言いようがないのに、それをわざわざ、言葉で考えなければいけない事の不自由さ。

言葉が与えられてすでに感覚は変質している。

目を見張るような、突き放すと同時に、媚びてすり寄ってくるような、苦味と甘味が混然となって立ちあがるような、とにかく立体的で両義的で、そういう、なんでもかんでもな、何か。

そういう。