時間


時間が勿体ない、という感じ方を時間というものに対して感じてしまう時点で、それはもう不自由さに囚われているということの証明だ。時間を有効に使いうる、というのは幻想で、時間自体を使うことなど現実にはできず、時間の内実が充填されたときに事後的に、ああーあの時間は素晴らしかった、と感じるだけなのだ。いや、内実がある、という考えも既に不自由さの囚われでしかない。その内実が入れ替え可能だ、という思いこみがあるから、勿体ない、などと言葉の発生する余地がうまれる。もっと×の何かをそこに流し込みたかった、などと思えてしまう。しかし、実際には内実はない。というか、内実がある。内実しかない。ということで、外枠の方が後からあたえられているだけだ。しかしそれはもはや言葉で考えることをあきらめているような地平でしか、今の僕には無理。というか、そもそも大前提として言葉を使うから、時間とか内実とか勿体ないとか、そういうことを言わないと、逆におかしくなるのである。言葉で考えたり、こうして書いてること自体、かなり時間が勿体ないことだ、としばしば思う。でもそれを捨て去ることもできないというのも事実である。