修正リスク

修正、すなわち、直す、治す、ということだろうか。そのとき、何を修正するつもりなのだろうか?たとえば文章なら、ロジカルな整合性を整えたいとか、最初と最後で言いたいことが変わったから一旦考え直したいとか、何度も同じことを言ってるから整理したいとか。あるいは、もっと「良い比喩」に置き換えたいとか、もっといい感じのレトリックにしたいとか。

でもそれが作品だったらどうか。作品を修正できるのだろうか。出来たとして、その結果何が変わるのか。「相手に伝わりやすくなる」のか「自分がより納得できる」のか。だったら自分は、どうであれば「より納得できる」のか?

絵画の場合であれば、なぜ画家が、あれほどまでに「描き終わるタイミング」についてシビアなのか。シビアというよりも、ほとんど不安と恐怖に駆られている状態に近い。なぜそこまで思い詰めるのか、それはもしそのタイミングを逸して、適切に描き終われなかったら、つまり描き過ぎてしまったら、それでその仕事は失敗だからだ。今までの苦労が、水の泡なのだ。それはけして「やり直し」できないのだ。

事後的な修正には、つねにリスクがつきまとう。なぜならそれは、厳密にいえば加筆でしかないからだ。消しゴムで消しても、消したという行為が加わるだけなのだ。

パソコンを使っていれば、きれいに消せる、そう思ってしまうとしたらそれは罠だ。消したいのは結果ではなくて、プロセスだからだ。どんな道具を使っていようが、そこは消去できないし、後戻りできないのだ。

ある文章の一部を直してしまうと、直してない他との関係は壊れる。その破壊を最小限にとどめる必要があって、直すことよりもその按配を見極める方がよほどむずかしいとも言える。

だいたい芸術作品というものは、おそらく小説であれ絵画であれ、作り手が自力であみだした一つのプロセス手順に従って造られたもので、だから信じたくて、自分を納得させたくて、世に問いたくて、何者かに向けて差し出したい内実とは、その作品自体であると同時に、生みだされたプロセス手順の正当性でもあるのだ。

事後的な修正というのはプロセス手順の微調整にあたり、かえって作品自体の鋭さを損なわせ、プロセス遵守しきれなかった甘さを露呈させてしまう点において、きわめて危険なのだ。「いい作品」を修正して「イマイチな作品」にしてしまうことはあるが、その逆は稀ということだ。