仕事


5月後半あたりから、今に至るまで、なぜだか仕事がやたらと忙しい。とにかく、行き着く暇も無いほど、何事かが起こり、対処に躍起になって、やがてその事案がどうにか、かろうじて沈静化し始めると、まるでそれをちゃんと待っていたかのように、まるで意図的にこちらを嘲笑う明白な意思でもあるかのように、おあつらえ向きな別の案件が、間髪いれずにまた襲い掛かってくる。そういう事が、あまりにも何度も何度も、何日でも何週間でも続くと、うんざりしたり、理不尽さに腹を立てたり、逆にやりがいを感じてハッピーになったり、気持ちが活気付いて調子を上げたり、辛くて泣きたくなったり、…といった、如何にも人間らしい、凡庸な感情の沸き起こることもあるだろうが、しばらくすればそれも通り越して、ちょっとやそっとでは動じないような、よほどのインシデントでなければもはや声さえ上げないような、常時スタンバイの半覚醒モードとしての意識が、微量の電力供給だけでどこまでも延々と持続し、たとえばある種の両生類や爬虫類の特性に近い何かを、身体レベルで身に付けることさえできるようになってくる。あと10年もすると多かれ少なかれみな、変容をはじめ、今することがなければ、まるで石のように凝固して動かず、たまに呼気のあぶくをぷかりと水面に浮かべるくらいの、そういう生態の生き物になる。そういう生き物はすでにどの建物の中にもいっぱいいる。ゆくゆくは、ああいうものになる。


それはまるで、大長編のすさまじく壮大なスケールの二カ国合作の戦争映画の、脚本も撮影も全然予定から狂って編集でさらにぐちゃぐちゃな狂態となった壮大な失敗作の、この世とは思えない過酷な戦場で戦う兵士の描写が延々繰り広げられて、恐怖と残虐に塗れた激しい夜戦の束の間の、そのまま上映時間2時間を過ぎて全体の2/3あたりまで来たあたりの、疲労と緊張と不安と、汗と火薬の匂いと流血と化膿と糞便のないまぜになった匂いの、グダグダな厭世感のごった煮の夜のジャングルの中のような、そういう時間の中でしかありえないような濃厚なうんざり感である。


とはいえ、磯崎憲一郎の小説「終の住処」が見事に指し示しているように、仕事などというものはおそらく「そういった経済や社会的システムを駆動し続けるための原理とは、じつは手続きとしては笑い出したくなるほど単純明快で、子供でもじゅうぶん理解可能なようにできている、大人は専門性という幻想や金が絡むことによる失敗への恐怖、そして言葉の定義や曖昧さに騙されているだけだということ」だっていうのは、これは本当のことで、いやマジで実際、この数週間、僕が必死になってやってきた仕事のすべては、おそらく完全に、「子供でもじゅうぶん理解可能な」ほど単純なことでしかないと思う。考えれば考えるほど、そう思う。そのことを思うとまた一層、ぼーっとしてしまうのだが。