「石塚ツナヒロ展」第一生命南ギャラリー


「トルソ」とは「胴体」の意味である。首と手足のない、胴体だけの状態である。欠落している事で、想像力をはたらかせる作用がある。などとも言われるようだ。しかし、そもそもイメージというものが最初から、なにかの欠落としてしか現れないものなのだろうなとも思う。トルソ、というとき、トルソと呼ばれる括弧たるイメージが最初からあるわけではなくて、イメージをあらわす事が結果的に、トルソ的にしかならない、という事であろう。


同形の縦長のキャンバスが10点、整然と並んで展示されており、まるで並べられた10枚のドアの前に、それぞれ人が、地上から少し浮かび上がるようにして佇んでいるかのようだ。それぞれがそれぞれの形を、誰にもさえぎられることなく、のびのびと、何の思惑ももたず、こちらの視線などまるで意に介さずに、只そのままの、己が姿をさらして並んでいて、同ギャラリーにおける前回の展示(「石塚ツナヒロ展〜TORSO〜」2007年)のときと同様、並べた人物画を一覧する、という事の原始的な欲望を堪能させてくれる感じだ。


とはいえ、今回の展示が前回とはやや異なる印象を湛えているのは、「トルソ」という言葉があらかじめかたちづくってしまう何かを、作品たちがそれぞれの力で食い破ろうとしているかのようにも見える点にある。たしかに一見「トルソ」という言葉の元で、おとなしく自分をその枠組みに従わせて、そこに佇んでいる作品たち、のようにもみえるが、しかし絵の一枚一枚は、自分が「トルソ」と題されたシリーズの一部だなどという事を、まったく意識に持っておらず、そのままの私のこの姿をいっぱいに開き、鑑者の前に晒しているかのようにも見える。というか、今回の作品中には、一枚だけを観たときそれが「トルソ」であると判断するのはかなり無理がある、というくらいの「逸脱」した形態をもつものも多く、また色彩も以前と較べてかなり奔放に選択された感があり、今までのモノトーンで品の良い仕上がりから出来る限り遠く離れようとするかのような意志も感じる。要するに全体を慎ましく品良く統御しようとする力をあえて意図的に弱め、それぞれの作品の成り行くままに、その行方を作品のモティーフであるイメージの力に、あえて任せたような印象を受けた。


しかし、この作家が本来持つとても上品な感触はかわらず健在で、とても安定したうつくしい画面であることはかわりない。安定した画面、という言い方はつまり、その上で線などが十全に最大限に美しく展開されている印象から来る感じを言葉にすると、そういう言い方になってしまうという事なのだが。殊に、線がとてもうつくしい(植物を描いた横長のモノトーンの大作も実に素晴らしい)。この作家の作品を観るといつも思うことだが、線の重ねや、掠れて消え行くときの痕跡の有様の、一度ひかれて、その上をさぐるようにもう一度ひかれて、何度かの試行の結果、幾筋かの線がゆるく重なりあっている状態は、なぜこのように美しさの感覚を観る者にもたらすのだろうか。線が、二度、三度と引かれ直し、その事で厚みと幅と強弱をもち、切断される感覚と膨らむ感覚を同時に感じさせるようになって、そこから描かれようとしていることが遡行的に観る者に伝わり始める、とでも言えば良いのか。


そこにあるそれぞれの差異は、何かの意味とか何かの象徴と結びつくことなど無く、単にその差異、というだけであり、その違いとは、違うといえば全然違うものたちでもあるし、しかし同じといえば、たしかに皆、似たようなたたずまいの、似たもの同士が並んでいるかのようでもあり、いずれにせよ、そういう作品群の「トルソ」と名付けられた、それぞれ皆が、整然と並んでいることで、それぞれが違う、という事の違い方の感じを感じながら、絵の前をゆっくりと歩いて移動しながら、それぞれの画面の細部を目を凝らして見続けながら、結局はその一枚がとか全体的にどうとかいう事ではなく、目の前のものの、「違う」という事を発見したり、「同じだ」という事を発見したりするような体験そのものへと、感じていることの内容の方が変わっていく。(この展示は6/25まで)