土曜日に吉祥寺「百年」で観た、トヨダヒトシ「An Elephant’s Tail ―ゾウノシッポ」について。写真作品だが、撮影者本人が映写機を操作してスクリーンに投影するスライドショー形式の作品である。
暗闇の中で、投影された写真が数秒か十数秒ごとに、映写機の切替音と共に切り替わっていく。写真を観ているというよりは、映画を観ている感覚に近いが、しかしスライド投影がその場で作家本人の手で操作されるので、時間や切替タイミングに都度誤差が生じるという意味では、ライブとかパフォーマンス的な感じもする。とにかく写真をそのとき一回見て、スライドが切り替わったらそれは暗闇に消えてしまい、次の写真があらわれるということで、おそらく写真をある安定した器として漫然と眺めてしまっては見えないものをこの形式によって見せようとしていて、でも、この観ることに対してあえて限定を設け、よりよく観るために目隠しをするような感じというのはやはり映画的だなと思う。暗闇の中でスクリーンに投影されているから映画的というよりも、見るためにあえて遮り、制約するというところが映画的だと思う。
しかし、作品が撮影されたのは1992年〜97年頃までのニューヨークとあって、この数字の存在によって、今度は観ている作品の写真的性質が強く現れてくるように思った。ここで僕がそう感じた写真的性質とは何かというと、写真一枚一枚の、すべての写真には撮影日時がしっかりと貼り付いているというのか、ああ、その時代か、という感慨、記憶のアリバイとして振舞うことが宿命付けられているというメディア的性質のことで、僕がたまたま95年頃に一週間くらいニューヨークを観光旅行したことがあることがあるのだけど、だから90年代のニューヨークが、こんな風にも在ったのか、みたいな、まあそれはともかく、しかしそれは如何にも、漫然と何かの写真をみた自分が思いそうなことだ。年代や日時についても、ニューヨークという場所についても(そう書いてあるから、その文字に)反応している。それは写真というより、写真の属性に反応しているということに過ぎないが、しかしそれもやはり写真である。とはいえ、スクリーンに投影される写真一枚一枚に、何月何日にどこで撮られた、といったような説明が付いてるわけではなく、合間合間に作家本人の文章が映し出されるので、それが映画のようなイメージの切り替わりを観ているのに、そういった写真に向けられた情報の補完みたいな感じになるのだ。とても不思議な、あまり経験したことのないようなものを観ているという感じを受ける。
一歩間違うと、きわめて内省的で自己完結的なだけのものになってしまいそうなのに、けしてそうはならず、また結果的には、映画を観たという印象ではなく、やはり写真を観たという印象をもった。写真は、写真、それはおそらく、誰かにとっての過去、つまり誰かにとってのかけがえの無さで、それが定着したものだが、そのかけがえの無さは、もちろんその人個人の問題であって、他の誰もがそれぞれの過去、それぞれ別の記憶を、それぞれ固有に携えていて、年代や日時のキャプションを書き込んで頭の中に保管しているだろうが、それら一人一人の間には暗闇しか無いので、お互いにアクセス不可能なのは当然であるが、しかしその暗闇の感じ。というか、僕は本作を観ていて、この先はもう進めないという感触を受けて、それが不思議と、作品の強さとして感じられ、このような拒みの方法こそ好ましいとかそういうことではなく、最終的にその暗闇に行き詰る感じが、なぜか良かったのだ。