昨日(日曜日)のことだけど、原宿Vacantにて「ENSEMBLES 09 休符だらけの音楽装置」より展示1「without records」を鑑賞。入場料を払ってドアを開けて階段を上ると、2Fからざわめきのようなノイズが聞こえてくる。薄暗い空間にたどりりついてあたりを見渡すと、はだか電球が無数にぶら下がっていて、そのか弱くて赤みかかった光だけで、空間全体がぼんやりと照らし出されている。かすかな光が照らし出す空間のいたるところには、大小さまざまな、古ぼけた無数のポータブル・レコードプレイヤーの、一本足の鉄製スタンドに設置されて、さまざまな高さに位置しながら固定された状態のが、おどろくほどたくさん、何十台も、所狭しと大量に置いてある。移動するのに気をつけないと、油断してると自分の身体がぶつかってしまいそうなほど、たくさんある。で、それらひとつひとつが、古ぼけて汚れて所々部品も欠けたような有様であるにもかかわらず、そのターンテーブルはかろうじて回転し、アームをゆらゆらと揺らせながら、けな気にもひたすら回り続け、アームはその回転に揺るがされながら、なおも存在しない架空のレコード盤の溝をなぞろうとするかのように、回る盤面をむなしく引っかき続けるのだ。その引っかくときの、ぎーーという電気増幅された摩擦音が、低く唸るような、まるで泣き声のような、うめき声のような、なんともいえないノイズを、それぞれ固有に、自分なりに自分なりのやり方で、音を発し続けるのだ。薄暗い空間のあちこちから、「ぎょーーー」とか「ぐぉーーー」とか「ひゅるーーひゅるー」とか、そういう機械的な、ポンコツ的な、騒音的な、金属的な、自動的な…なんともいいがたい、なんとも表現しがたい音が、ざわめきのように、人々のささやき声のように、無数に現れては消え、ひたすら音の粒立ちのようにして、空間全体にたちこめているのだ。
音は空間内のさまざまな場所から聞こえて来て、会場にいる自分は音がするたびに、その音の方角へと視線を向け、どのターンテーブルが鳴いているのかを探す。泣き声は単発的なときもあり、えんえん繰り返されるときもあり、そのパターンはまったく一様ではなく、全体的にもかすかなザワメキのような瞬間から、ほとんど一分も二分も沈黙し続けるかのような瞬間から、ほぼすべてのターンテーブルが一斉に鳴き始めて、おどろくべき勢いで何かを揺さぶり動かそうとするかのような瞬間まで、波のように、多様に変容し、それはまるでターンテーブル同士が呼応し合うかのようでももあり、観客の態度や動きに直接反応しているのではないか?とさえ、感じられるときもある。もちろんそれは錯覚なのだが。でもその音の、きわめて金属質な無機質で、機械と物質が擦れて干渉しあうときの、非人間的な摩擦音・擦過音であると同時に、なんともユーモラスで表情豊かで、動物の赤ちゃんの鳴き声のようでもあり、自分の存在を訴えているような、甘えて媚をうっているような、そんな印象さえも感じられる、なんとも面白い音なのだ。
一つ一つはぼろぼろでもはやまったく使い物にならなそうな、古くて安っぽい年代ものの、その筋のマニアや骨董趣味の人々たちなら喜びそうな、チープなポータブル・レコードプレーヤーの外観だけを見ると、最初のうちは、いくらなんでもこれらの魅惑的なオブジェたちから、実際これほど面白い音が出る訳がないと思った。これはおそらくすべてのボディの内側に一つ一つスピーカーを埋め込んで、そこからあらかじめ用意した録音データを再生しているのではないか?と疑った。でもたどたどしく回転するターンテーブルを、顔を近づけてその様子を見てみると、驚くべきことにその音は、たしかにターンテーブルから出るその音として、今、ここで僕の耳にきこえてくるのがわかるのだ。…というか一瞬、今きこえているこの音と、今見ているこのこすれ合う物質との、音と視覚的イメージとの親和性が完全に揺らいでしまうかのような感覚を味わった。今見てるこれと、今きこえているこの音が、どちらも「この物質から出てる」というのが、微妙に揺らぐような不思議な感覚…。
いわゆるインスタレーション的な展示だが、でも自分としては完全に音楽として楽しんだ。音楽として楽しむその楽しみ方が、ちょっとものすごい勢いで拡張されている。それを思い思いに自分のやり方で楽しむのだ。その体験はまさに音楽的だと思われる。というか、展示会場に居るひとびとの、思い思いの体験の仕方を見ていると、この作品がまさにとても良い感じで鑑賞者から受け入れられている感じを強く受けた。あえて言うが、こういう「意味のわからないノイズみたいなもの」を、あれだけ多くの人が、あれだけ長い時間、あれだけ自分の世界に入ったまま、ひたすら延々みなで沈黙したまま、それに浸り続けているというのは、それだけである種感動的だとすらいえる。逆に言うとそれだけ、人をそちら側にもっていくパワーをもった作品なのだ。この作品のもつ端的な力がすばらしいと思う。もともと、現代の美術とか音楽とかは、本来とても、か弱い力しか持たず、そんな作家のどんな作品であれ、それを成立させるためには、ほぼ例外なく作者や鑑賞者やその他の人々の気遣いや繊細な配慮というものが不可欠であり、逆に、無神経な振る舞いや、自分勝手な態度や、ただ自分だけが助かりたいと思うこころが、一瞬でもそこに加われば、作品がかたちづくる場としての緊張感とか、その場全体というものは、いとも簡単に壊れてしまうものなのだが(でもそれは、ある意味こわれてしまってもかまわないものなのかもしれないが。というか、こわれてナンボのモノで、それ壊すな、それに絶対配慮しろよ、などと強要するのは単なる暴力に過ぎないので、それはやっぱり無力なものであり、ゆえにこわれてしまうものなのだとは思うが)、…しかし、今回のこの展示に関しては、もういろんな人がそれぞれ思い思いに体験していながらも、作品の前に等しくつつましい鑑賞者である状況というのを見てしまったように思えて、つまりそのように、作品が見事に成立しているのを目の当たりして、そのことにも感動した。
結構長い時間、会場内をふらふらしつつ、そのサウンドを聞いていて、そして思ったのは、いくら音が断片的で無機質になっても、ここで発される音というのは、どこまで行っても音楽的なものを失う事はなさそうだ、という事であった。そこで僕が言いたいのは要するに、リズムというか、グルーヴみたいなものの消失がありえない、という事である。なぜなら、それはターンテーブルだからだ。回転体から発される音は、それが如何なる音の質であるとしても、かならずグルーヴを有するのだ、と思った。というか、おそらくターンテーブルという物質が、もうどうしようもなく音楽的な機械なのだ。それは再生装置であると同時に楽器でもあり、すべての先立った上での音楽機械なのだ。…そういうことを強く感じた。
会場を出てから青山ブックセンターに行って、細川周平「レコードの美学」という本を買う。僕はこの本を、学生の頃から知っていた。すごく面白そうだ、と当時から思っていたのだ。でも、難しそうだしなんとなく買って読んでみようとまでは思わず、そのまま20年近くの月日が経過してしまった。でも今になって、なんか最近の自分の考えてることとか、今日見た作品の印象とかについて考えていて、青山ブックセンターでその本を手にとってみて、すこしだけ立ち読みしてみて、あぁこれは僕にとって、今まさに、今こそ読まなければいけない本ではなかろうか、という思いが急激に高まってきて、で、ついに買った。購入後も読み続けて、まだ序盤でしかないけど、今僕にとってもっともアクチュアルに感じられるような事が、いっぱい書いてあるので、今はひたすらこれを読んでいたいという状況です。