「Cowgirl In The Sand」


Neil Youngの「Cowgirl In The Sand」を聴く。アコースティックギターでの弾き語りのやつとしては、僕が所持してるのはCSN&Yの「4 Way Street」に収録されてるテイクとNeil Young「Live At Massey Hall 1971」の2バージョンだが、やはり前者のヤツが圧倒的に素晴らしいと思う。僕はこの曲の歌詞の意味を知らない。ずいぶん昔から知っていて、大好きな曲で、今まで何度も聴いているのに、そこでNeil Youngが一体何をうたっているのか、全然わからないし、今までわかろうとしたこともない。でも、何度聴いても、素晴らしいと思う。そう思う気持ちは、ホンモノだ。。

歌詞の意味内容もまたサウンドにとっては二次的で、それ理解できないことは必ずしも負の要因ではない。それがどんな内容であろうと、またどんなに名歌手がそれにふさわしい解釈をしていようと、何語なのかさえわからない聴き手がそれに構わず純粋な人声としてしか聞き取らないことは珍しくない。外国語で歌われた場合我々が聴くのはこうした純粋な素材としての声であり、その歌詞や自国語訳を知ることが歌い手の技巧や表現力、作品としての基準となることはあっても、サウンドとして聴くのに必ずしも必要不可欠とはいえない。サウンド聴取は意味内容の理解を排除しないが、それを前提ともしない。むしろ声自体、音楽自体が持っている"肌触り"が重要で、声がどのような効果をもつかに関心が絞られる。(レコードの美学230頁)


いわゆる「歌が上手い」ということとはべつに、その歌手の「声が良い」というのは、確実にあって、そのときの「良さ」とは、いったい何か?誰が、如何なる基準で、その「良さ」を判断するのか?というのはすごく謎で、それは技術的なところとはまったく別な判断基準なのだが、しかしその声を聴いただけで「これは良い」と瞬時に思わされるような声があるというのは事実だ。それは素晴らしさ、として在るというよりは、あらかじめどこかにあった、ある出来事なり、ある感情なりを、瞬時にまざまざと思い出させるような、ふいの記憶のたちあがりのようにして、その歌手の歌であると同時にそれとはまったく別の何の脈絡も共有しないべつの出来事をいきなり引きずり出してきてしまうかのような、そのような得体の知れない、時間を逆行するかのようにして聴こえてくる声(音)だ。


Neil Youngが「Cowgirl In The Sand」でなにを歌っているのか?…それは僕には、わからないのだが、しかし同時に、Neil Youngが「Cowgirl In The Sand」で、もはや否定の余地もないほど決定的に重大な、とても強烈でかけがえのない何かについて歌っている、既に歌ってしまったのだ、という事も、僕にとっては確かなことなのだ。