料理


とても美味しい料理を、食べたときの記憶が忘れられない、この世のモノとは思えないほど旨かった、と思っていて、だからそれを、もう一度つくろうとするのである。作り方は、大体、わかっている。というか、作り方自体は、とても簡単なのだ。だれでも作れるようなレシピだ。だから、それで、作ってみる。作って、食べてみる。でも、かつてのあの、奇跡に出会ったかのようなおいしさの感動が再びあらわれることはない。なぜ?こんなはずじゃないのに、と思う。で、考える。


そもそも、あの「旨かった」というのを再現させるために、この料理をつくったのだが、それがいくら、かつてと同じ食材と調理法でつくられたとしても、つくっているうちに、「この料理をつくる」という事の方が強くなってしまう。「この料理をつくる」という事に対して、「食べる」で対処するしかない状況というものが出来上がってしまう。それが端的に堅苦しい。それでは絶対においしくない。


おいしさというものが本来、単独でたちあがってくるようなものではないのだとも言える。何かと何かの間にはさまれてふいにわき上がってくるような感覚に近いのかもしれない。だとしたら、それを「再現」させようとする事自体が、根本的に無意味な事である可能性も否めない。しかしそれが「おいしかった」という記憶そのものは、単独でたちあがってくるのだ。それはたしかに、それ自体で、おいしかったのである。そのひとかたまりのイメージとして、記憶に生成されるのだ。される以上、それは再現可能なのではあるまいか?そこに努力の甲斐がないとは言い切れないのではないか?


食事をしていて、かつてのあのおいしさの記憶と、そのときの自分のよろこびの感触が、ふいに蘇る事があるのだ。それがまったく別の食材と調理法からなる料理であっても、突然、蘇ることがある。でも、食材だの調理法だの、そんなものに如何ほどの意味があるのか?むしろ、そのような呼び覚ます力こそが、料理の潜在的な力なのではなかろうかとさえ、最近は思うのだ。料理の技なんて、はっきりいってしまえば、どれもまあ似たり寄ったりではないか。食材と調理には、それは無数のやり方があるのだろうし個性とかもあるだろうけど、でも所詮、それは加工した食材ではないか。どこでとれた、どんな一流の名産品であろうが、そんなものにさしたる違いなどないじゃないか。だとしたら、それはもはや、味覚の問題ではなくて記憶の問題なのだ。おいしさとは味覚的な愉悦ではなくて、過去の再来なのではなかろうか。しかし、だとしたら、何を扱えば、おいしさを追い求めるという事になるのか。