時間・過去・記憶

RYOZAN PARK巣鴨保坂和志ソロ・トーク一回目「時間・過去・記憶」を聞きにいく。以下は例によって聞いた(記憶した)話と自分が考えた話の、区分け無しのミックス状態なので、その旨あらかじめご承知いただきたい。

いちばん強い記憶は視覚的なものではないんじゃないか、という話。イメージ=「絵」ではない。少なくとも小説においては、ということ。

「リアルだから面白いのではなくて、その逆だ、面白いからリアルに感じるのだ」。そのリアルさとは、要素の整合性とかイメージ的緻密さとかとは別だ。「おお、これはリアルだ」と思うとき、何かと何かが較べられてはいるだろうが、片方に対してもう片方の再現度が高いことを喜んでいるわけではない。それは何かと何かとの違いがもたらす面白さへの反応だ。リアルさ=外部や認証の評価結果としてすごいのではなく、それ自体として勝手にリアルなのだ。

年齢を重ねると、記憶を呼び起こすときに自分に与える制限(条件)がどんどん限定されていくという話。「今日は何日?」と聞かれてもわからない。カレンダーを見ると日や曜日がわかる。カレンダーはただの一覧表だが、数値に対して自分の適当な値を前提として与えることで戻った結果を受け取る。たとえば昨日の曜日を思い出すなど、ある前提を立ててから、今日の曜日を導き出すためのツールだ。そういう諸々の前提立てに寄りかからなければ記憶からの読み出しができないことのわずらわしさ。

カレンダーを使わない、そういった前提条件を必要としない方法に自然と近付く。「金曜日はヘルパーさんが来てくれる日」ということはおぼえている。だから記憶を呼び起こすときに「金曜日はヘルパーさんが来てくれる日」という制限(条件)だけを使って日時や曜日を思い出そうとする。ゆえに年齢を重ねるにしたがって、記憶の前後・順序性などが不明瞭になる。しかし、家から歩いて十分以上かかる道順はおぼえている。記憶を呼び起こすことができるかどうかは、自分に与える制限(条件)の量や複雑さの問題ではない。

失われた時を求めて」のゲルマント公爵夫人がふと上を見て、主人公に気付いて、目で挨拶を交わした瞬間の、「あぁ!」というあの感覚、それは記憶の前後・順序性や空間の隔たりなど軽く飛び越えて、この私のリアルとしてありありと目の前にあらわれるものだ。しかし公爵夫人がどんな顔だったか、どんな服装で、周囲がどんな状況だったのかを、言葉で説明できるわけではないのだ。その記憶の細部はまったく問題ではないし、そのシーンのビジュアル的な再現可能性をリアルとか面白いとか感じるわけではないのだ。むしろ何の説明もできないような混沌とした、しかし鮮烈な何か(その一瞬がもたらした過去に散らばっている複数の-個人的・匿名的なものを含めた-記憶の束)に反応している。

北斎の波の描写、そのイメージを今この場で絵に描けるか?と言ったらなかなか難しいのだが、「北斎の波の状態」を頭に思い浮かべたときに、それはちゃんと思い起こすことができる。また北斎の波の描写は科学や視覚技術などの裏づけと無関係だし、仮に後からそのような裏付的な言説によって補強されても、北斎の波の描写の良さが高まるわけでもない。面白さや感動と、記憶のイメージ的精緻さはあまり関係がない。面白いと思ったことを、きちんと言葉やイメージで説明できないからといって、それを面白がってない(面白さの核を掴んでない)理由にはならない。むしろ記憶の前後・順序性や細部にふだんの我々がどれだけ縛られているか、そちらの方が問題だ。

(しかし小説を書き始めたような人にとっては、時系列にしたがって書くような基礎的練習も大事。それは文章を書く上での筋トレのようなもの。何を書くにしても基礎体力があるというのはすごく重要。基礎力なく記憶や文脈をいじった作品を作るのはとても難しいはず。たぶん基礎体力がその人をより自由にするという側面はあるのかも。 )