ヘチマの観察


小学生のとき、ヘチマを観察して、観察日記を書かされた事をいまだに憶えている。1年生のときはアサガオで、2年だとヘチマだったように思う。


アサガオはきれいだったが、ヘチマはあまり面白くなかったような気がする。いやそれは今思い出して勝手に捏造した記憶かもしれないが、とにかく、楽しくは無かった事だけはたしかだ。だから、観察日記もいい加減な気持ちで書いていたと思う。いや、いい加減な気持ちで書いた、というのも、今捏造した記憶だ。当時の僕はいい加減さというものを自己認識していなかった。いい加減さというのは、そうじゃない状態を意識しつつ、そこにあえて自分を高めずに適当な回転数に留めて適当にやり過ごす力のかけ具合の事なので、小学生時代の僕はそういう高度な意識をもっていたのではなくて、ただ単にヘチマの観察が面白くなくて、しかしそれを従順に観察していたので、結果的にいい加減にやってるのと見分けがつかないような観察日記になったのだ。


クレヨンで、土から芽が出ており、それが成長して、4枚の葉が生えた様子を描いた。そして下欄に「今日はおおきなフタバが出ました」と書いた。当時の自分もさすがに、我ながら、まったく冴えたところのないエントリーだと感じた。というのはたぶん捏造の記憶だが、冴えないと感じた事だけは事実である。


その日記が、後で担任教師の逆鱗に触れたのだ。その教師は烈火の如く怒り「こんないい加減な観察日記がありますか!ぜんぜん観察してないじゃありませんか!」と教壇に立ちクラス全員に向かってわが作品を晒しながら激昂した。


僕は実に困惑した。それは誤解ですと。僕はいい加減にやったつもりはないのだ。でも、どう頑張っても、僕はヘチマに夢中になれないのです。だから結果的に、いい加減にやってるのと見分けがつかないようなモノになってしまったのですが、でもそこに至るまで、僕は人並みの努力をしてきましたし今も変わりません。いわんや先生を激怒せしめる意図など微塵ももっていなかった。これは不幸な事件なのです!と。思った、というのは捏造の記憶であるが、でもそういう自分ではどうしようもない事から起きた事なので、怒られても困るという気持ちだけは事実としてあった。


3年生になったら、たしかヒマワリだった。ヒマワリは良かった。実に楽しんだと思う。何しろヒマワリは絵に描くのが楽しいし、枯れて朽ちた後も動物の屍骸みたいな迫力があった。タネの形状とか色模様とか、茎の太さとか、とにかくダイナミックで生き物の生々しさが横溢していて、超エキサイティングでしたね。「やっぱヒマワリだよね」とか、クラスでも話題だった。それは捏造の記憶だが。でもたぶん前年のヘチマのトラウマをここで払拭したい。自分が長年背負わざるを得なかった過去のネガティブなカードを、ここで一挙に賭場に出してあわよくば全部裏返したい、という気持ちもあって、ちょっと自演っぽく、ことさらヒマワリに入れ込み、熱を上げたところもあったのかもしれない。まあ、小学生のときの思い出とか記憶なんて、全部捏造と言ってもさしつかえないかもしれないが…。