エル・スール


北千住の東京芸術センター・シネマ ブルースタジオにてエル・スールを観る。観るのは去年の10月以来、二度目だが、今回はとくに前半の様々なシーンにつよくこころ動かされた。どの場面も素晴らしくて一々挙げてたらきりがないが、主人公の娘、エストレリャの初聖体拝受式のときの父親アグスティンが教会の奥の暗がりからすっと出てくるところとか、実に素晴らしい。エストレリャは父親に向かって、真っ直ぐに歩み寄り、そして抱擁する。飽きたら外にいても良いから最後までここに居て、と父親に云う。とりあえず今日はここでいちばん泣いた。あれくらいの歳の、真っ白に着飾ったかわいい娘から、両手で自分の襟元をぐいっと引っ張られて小さな顔を寄せられたら、父親というのはどんな思いがするものだろうか。


映画館を出たアグスティンの、その後カフェに入って、窓際の席で手紙を書いていて、そしたらエストレリャが窓の外から、コンコンコンコン!と早めのノックで父親に気づかせる。このノックの音の、不思議な容赦の無さ。そして気づいたアグスティンの、娘を見るときの、もう言葉に出来ないようなあの顔。そして立ち上がって、フレームからアウトして、しばらくして窓の外の娘の前に現れるまでの、あの数秒間。


自分の年齢のせいかどうかわからないが、この映画を観ていると、自分が娘の立場として観ている気持ちにもなるし、父親の気持ちとして観ている気持ちにもなる。それにしても最後のレストランのシーンでの、あの娘の冷たさ。。いや、冷たい、という事ではなくて、むしろもっとも人間同士の親和的な素っ気無さがあらわれている場面なのだが、でもそれはやはり、とても冷たいもので、しかし決して嫌なものではなくて、むしろリアルで、いわば、懐かしく優しい冷たさ、とでも云うべきものだ。一番厳しい過去のエピソードをずけずけと娘から口にされて、父親はたまらずトイレに逃げていき、顔を洗って気持ちを落ち着かせて、何事も無かったかのように表情に笑みをたたえつつ再度テーブルへ戻ってくるのだが、娘はすぐに「もう行かなきゃ」と云う。


父親は一人でテーブルに腰掛けたまま、娘が去るのを見ている。それが父親との最後のやり取りとなった。…あのとき、私はどうすれば良かったのか、それをいつでまでも考えてしまう、とエストレリャは後の思いを語るのだが、しかし病気療養のため南へ向かうことがきまったとき、初めて南へ行ける事の期待で、私は胸の高鳴りを抑えることができなかった、とも云う。エストレリャにとって、南は、胸が高鳴るような希望に満ちた場で、しかしそれは父親の過去へと遡行する旅でもあり、さらなる過去や歴史を知る事でもあるのだが、でも私の胸は今、抑えがたく高鳴っている。ということなのだ。その事の、朝の冷気のように冷たくて新鮮な幸福の感触