暖かい一日。気温が今日みたいに暖かいと、暖かいなあと思うだけではなくて、ああ春のようだなあと思う。寒さが厳しいときは、過去の同じような厳しい寒さを思い出して、ああ真冬だなあ、とは思わない気がするが、暖かいと、暖かさよりも春という過去の記憶の方が強く思い起こされる。過去に経験した春的な感触が今急にたちあらわれた事の驚きを驚いているような感じになる。おそらくこれは厳しい寒さよりも暖かさのほうが身体への負担が少なくて色々と想像が膨らむ余地もできるからだろう。
「美智子皇后と雅子妃」を読む。美智子妃のあまりの人間的な素晴らしさに感動する。もう僕はこの世界に美智子妃のような方がいらっしゃるという事だけを心のささえにして生きて行きたいとさえ思いました。
母として、皇太子妃としての責任を真面目に果たそうとすればするほど、批判を受け、攻撃される。宮中での居心地が悪くなる。かといって、旧来のすべてを否定するわけにはいかない。なぜなら皇室とは伝統そのものであり、長い過去と現在のかけ橋としてこそ、その存在意義があるのだから。(中略)
このやりきれない、搾め木にかけられるような悪循環にたいして、美智子妃は果敢に立ちむかった。ひるまなかった。体調をくずされたことも何度かあったけれども、戦いぬいた。
この母のもとで、浩宮は育ったのである。 (「美智子皇后と雅子妃」福田和也 )
ある友人が、乳人制度廃止のような好ましい改革について賛意をのべたところ、「改革などという言葉は使わないでね」と珍しく厳しい表情で言われたという。
「東宮さまの乳人さんは、今もおられるのよ。乳人さんは一生懸命お乳を差し上げたでしょう。皇后さまも、この時期にいらしたら、必ずこうなさったはずよ。これは時代の変化で改革ではないの。そして変化でさえ、人を傷つけ、苦しめることがある。新しい時代の恩恵を、前の時代への感謝と配慮なしに頂いてはいけないの」 (「祈り 美智子皇后」宮原安春)(同書より孫引き)
「新しさ」を、ある慎ましさと自矜の心をもって受け止めるという事。そして同時に周囲や目の届かない領域への想像力をはたらかせて、それらへ配慮するということ。いやそれは「配慮」という言葉では足りなくて、たぶんその変化が、私や周囲やそれ以外のすべてにとって何を意味するのかを、まず真っ先にどこまでも考えようとするこころであろう。「新しいという事はね。古くならないことだと思うの」という小津の「宗方姉妹」での田中絹代のセリフを思い出す。