仕事


その形式でなければならない理由とは何なのか?たとえば親の家業を継ぐ、みたいなわかりやすい話ではなく、たとえばこの私が、美術という形式でなければならない理由は何なのか?小さい頃から絵が好きだった?父親が絵を描いていた?美大に行ったから?それ以上に何か理由があるか?何もない。べつに美術という形式と何の因縁もない。大昔から感じていたことだけれども、そういうのは結局、考えるまでもなく、美術と関係を結んでしまう人が美術家なのだし、言葉と関係を結んでしまう人が小説家なのであって、それはもう発情期の若者が勝手気ままに振舞ってるだけで、出来上がるのは放っておいても出来上がってしまうし、勝手に成長して勝手にいっぱい繁殖しているようなものだ。もうそれは、手がつけられないような旺盛な生命力で、やたらわんさかと生み出すのだ。そういうのは形式がどうとかこの私にとってどうたらとか、そういうのは考えてない。ただひたすら、増殖するのだ。


やたらと生み出すことの、はしたなさ、というものがある、と思う。やたらめったら、ひたすら産み落とすみたいな、そういう下品さ。なりふり構わない、むきだしの、下卑た感じ。ひらきなおって、ふんぞりかえった感じ。自信たっぷりの、泰然自若な感じ。頼りがいのある、度量のある包容力のあるおおらかな、どかっと腰を下ろして、両足を大きく開けて、大股を開いて、股間を見せ付けるようにして堂々と座ってる感じ。うっとうしい自意識過剰な若者の得意げな表情と、あたりに漂わす汗臭い体臭。…世間で「慎ましい」「控えめな」「品の良い」「地味だけど芯の通った」とか云われているようなものはほぼすべて、例外なく前述のとおりの、実に生臭い場所から生えてきたキノコみたいなものである。。


とはいえ、それを今更どうこう言ってる事も愚の骨頂で、それはともかく先日から妻が「もうわかったからとにかくお前は絵を描け絵を描け絵を描け」と再三云うので描きます描きます。