この人の閾


まあまあの一日。雨は降らなかった。夕方少し買い物に出ただけで、あとはずっと家の中。窓を開けておくとかなりいい風がすーっと通り抜けていくのでいい感じである。今日はこれだけでも充分に快適。まあ、なんにせよ、楽しい気持ちで、前に行けるきもちを前面に出していくべきだよ。そういう気分でいれてる?本を色々と読み散らす。


保坂和志「この人の閾」を再読。この話のなんとも言えないふわっとした午後の日差しをひたすら浴びているような快適さというのは、たぶん仕事での、出張とか外出のときの空き時間を利用して、良い感じの時間を作り出して、そのとてつもなく良い感じのぽかっと空いた感じが基調になっているのが大きいのだろうと思う。それこそ高校生が屋上でタバコを吸ってるときの時間みたいなもので、いくつになっても何かをさぼってるときの時間というのは常に、光り輝くほど魅力的なひとときなのだ。その中で、けっこう柔らかいというか、場当たり的というか、ひじょうにゆるい感じで、話も見事にぽんぽんと思いの向くままに飛んでいって、ま今更だがあらためて、すごいなこりゃ、と思うのだが。


文中にリストラ、という言葉が出てきたので、へえと思った。まあ、リストラという言葉自体は昔からあったのか。こっちがそういう風に読んでるからだけど、この話は思ったよりも全然「働くこと」に関する小説なのだ。真紀さんのご主人とか、主人公の会社のほかの人々とか、猛烈に働いてる人々がいて、その人たちと共に働きながら、自分とか知り合いの宮下さんとかは、たぶんなんとか「チェスの勝負がつくまで動かされない駒でいたい」と思っていて、そのきわどい綱渡りの上で何とかやっていこうとしている。できるだけサボりたいし、できるだけサボれるような仕事の仕方をしていきたい。最初から学校に行かないで家で一人でタバコを吸うのではなく、屋上でタバコを吸うために学校に行くようなものだ。でもそれはそういうものだ、理屈じゃないのだ。それが生きるということなのだから。まあそこで自分だけが「何とかサボリたい」と思っているか、宮下さん的な何かに同調しつつ「動かされない駒でいたい」と思っているか、というのは、同じようでかなり違うのだとも思うが、それは目の前の周囲を裏切りつつ見えない何かに奉仕しようとするのか、あるいは友達が感じさせる何かというかその間に存在する確かな感触を優先するのかの違いとも言えるかもしれないが、まあそれはともかく、でも真紀さんはそうじゃないのだ。真紀さんは本当の、逃げ場のない、押しつぶされるような、強烈な孤独と膨大な時間の堆積の中で、ビデオを見たり本を読んだりしているのだ。それを主人公は、たぶんまだほんとうにはわかっていないのかもしれない、という事をわかっているのか。もちろん僕にもわからない。


会社によくいる馬鹿なやつ(自分が如何にこの場で有能な存在かを常に誇示しようとするようなヤツ)を批判するような部分もあって、まあほんとうにそうだけど。でもまあ、会社は「おれは俺の考えと相反するあいつのような存在は絶対に認めない」という方針で行くより「おれはどこのどんなヤツの事でも、意地でも全部認めてやる」という方針で行くほうが、なんかやりがいのある場所でもある。やりがいがあるというのは、それだけストレスを軽減できるという事に過ぎないのだが。でもこの作品の主人公とか、保坂的登場人物は基本的に「ああいうやつは絶対に認めるな」というのがある。誰にでもいい顔をしようとか、誰にでも気に入られようとするタイプではないのだ。でも誰にでも気に入られようとするタイプにこそ、最悪のヤツが潜んでいるというのも確かにわかるのだが。というか、「健全に喧嘩」できるだけのゆとりを持ってるという事だろう。そこが、今は(僕にも、世間にも)無いんだよなあと思う。


今日の一日は、音楽はひたすらErykah Baduを聴く。最新アルバム収録の「Window Seat」は今日だけで10回近く再生した。なぜだかはわからないが、今はこれがツボ。