オーレンカ


「可愛い女/犬を連れた奥さん」岩波文庫も読み終わった。神西清の翻訳は最初読んでるときは、やっぱりちょと古めかしいなあとも思うが、読む進めるとやはりこっちの方が圧倒的に素晴らしく思える。とくに「可愛い女」の何と素晴らしいこと。この作品は、おそらく神西訳のこういう感じでなければいけないのではないだろうか、そう思わせるほどの力がある文章。宮沢賢治的な、民話的というか、童話的というか、そういう土俗的に語り継がれてきた神話のような味わいがあるのだ。


が、中でも一ばん始末の悪かったのは、彼女にもう意見というものが一つもないことだった。彼女の目には身のまわりにある物のすがたが映りもし、まわりで起きることが一々会得もできるのだったが、しかも何事につけても意見を組み立てることが出来ず、何の話をしたものやら、てんで見当がつかなかった。ところでこの何一つ意見がないというのは、なんという恐ろしいことだろう!例えば壜の立っているところ、雨の降っているところ、または百姓が荷馬車に乗って行くところを目にしても、その壜なり雨なり百姓なりが何のためにあるのやら、それにどんな意味があるのやら、それが言えず、仮に千ルーブルやると言われたって何の返事もできないに違いない。クーキンやプストヴァーロフがついていてくれた頃も、またはその後で、獣医がついていてくれた時も、オーレンカは説明のつかないことは一つもなかったし、どんな問題を出されても自分の意見を述べるに不自由しなかったものだが、それが今ではむらがる想いの間にも心の内部にも、ちょうどわが家の庭そっくりのがらんどうが出来てしまっていた。その何ともいえぬ気味わるさ、何ともいえぬ口の苦さは、(ヨモギ)をどっさり食べたあとのようだった。

あるいは「イォーヌィチ」の素晴らしさ!この話の素晴らしいのは、主人公のスタールツェフもお相手のエカテリーナ・イヴァーノヴナも、どちらも悲劇的な結末へと向かっては行くのだが、しかし彼ら彼女らの成り行きを、読んでる僕らは決して嫌なものには思わないということではないだろうか。スタールツェフの過去の記憶と現状を「ああいやだ、ああはなりたくない」などと、心から思う人間というのが実在するのだろうか?むしろ、そこには、人間として生まれてきたという避けがたき運命を、図らずも共有せざるを得ない者としての、不思議な連帯感しか感じないのではなかろうか。だから「イォーヌィチ」ほど幸福な書物は、世界にもあまり類をみないものではあるまいかとさえ、思うのだ。たとえそれが、どれほど寂しく孤独で不毛な結末であったとしても、でもその不毛さこそに、ある種の救いがあるようにも思えてしまう。


チェーホフは今日でひとまず終り。明日から読みかけの本の続きを。